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とし、一町(四百尺、120〜150m)四方を占め、従って面積は4,400〜6,800坪としました。
とあるところから、東西には川、南北には堀が巡らしてあったと考えられます。
また、南北の堀は、敷地内の湧水を利用するか、東西の川から水を引き入れるかのいずれかと思われますが、ここでは後者としましした。
更に、上杉本洛中洛外屏風(【永徳と障屏画 桃山の絵画・工芸2】【〈国宝〉上杉家本洛中洛外図大観】)、【洛中洛外 環境文化の中世史】の都市図により、
がありました。
ただ、通りの幅については、川や侵攻路を描き込むため、実際よりも多少大きめになってしまったようです。
を参考に四棟、『上杉本 洛中洛外屏風(永徳と障屏画 桃山の絵画・工芸2)』の本能寺を参考に「渡り廊下」、【信長公記】を参考に「厩」を描いてみました。
とあり、北から三宅弥平次(明智秀満・左馬助)と斎藤内蔵介(助)子息とが侵入したとされ、従って振屋さんは、一方の指揮官である斎藤内蔵介(利三)は南から侵入したと推定されています。
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