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資料 本能寺の変】 [亀山から本能寺へ]

天正10年6月1日(1582年6月20日)夜から同2日(1582年6月21日)未明にかけての、明智軍の行軍進路と、「本能寺の変」関係の建物の位置関係図です。
これまで、こうした資料は殆ど見当たりませんでしたが、振屋裕恒さんがその著書【覚え書きノート】の中で、膨大な資料を駆使しながら詳しく考証されています。
この『覚え書きノート』を基に、本能寺の位置関係などを図にしてみました。
掲載を快諾していただきました振屋さんには、この場を借りて、厚くお礼申し上げます。
この著書の詳細は、[本能寺・妙覚寺襲撃の謎]に掲載してあります。是非、ご覧ください。

図中、赤色は「本能寺の変」当時の、橙色はそれ以外の現在の地名・建物名など、を示します。
本能寺の北西に示した「二条城」は徳川家康の築城したもので、変当時の「二条御所」とは違います。「二条御所」の位置につきましては、[本能寺周辺位置関係図]を参照下さい。

図中の地名等(一部)をクリックしますと、[地名・史跡名]の指定した見出しにジャンプできます。
また、をクリックしていただきますと、[本能寺の変 ゆかりの地]の各ページにジャンプできます。


亀山から本能寺へ
(注意 図の道路などは、現在のもので、当時のものではありません)



亀山から本能寺へ

信長公記】によれば、「本来、亀山から中国へ行くには三草山を越えるところであるが、引き返して東に向きを変え、兵には老の山へ上り山崎から摂津へ向かうよう伝え、先に相談した武将達に先鋒を命じた。・・・老の山へ上り、右の道を行けば山崎天神馬場から摂津国へ通じる街道のに出る。左へ下れば京に出る道である。そこを左に下り、桂川を越えた。」とされますから、山陰街道を行軍し、丹波口(七条通)から京に入ったと考えられます。

山陰街道の一部が違っておりましたので、描き直しました。桂付近を少し北に移動し、丹波口へ繋ぎました。西村さんからのご指摘でした。改めてお礼を申し上げます。
また、三草山越えの道と、山崎天神馬場への道を描き加えました。山崎天神馬場へは「老の山へ上り、右の道を行けば」とありますが、「老の山を下り」沓掛付近から右に行くものと思われます。
更に、全くの想像ですが、山崎合戦後の光秀の敗走路も描いてみました。 Dec/5/1999

明智軍の行軍路について、西村さんから「9号線ではなく、当時の山陰街道を通ったのではないか」というご指摘をいただきました。
まだ調査中ですが、当時9号線に相当する道があったかどうか確認できなかったこと、大軍を移動させる場合は幹線路を利用するであろうこと、丹波・丹後方面への街道として山陰街道があったこと、などを考慮し、西村さんのご指摘通り山陰街道を利用したと考えるのが妥当であろうと考え、描き直しました。 Nov/28/1999


光秀の敗走路

「光秀は逃れて山崎の北東約3.5kmの勝竜寺城に入ったが、夜中この城を脱出し、その本拠近江坂本城に赴こうとし、淀川の右岸を東に走り、大亀谷から小栗栖に至った」 【戦史ドキュメント 本能寺の変】 May/26/2001


参考

本能寺周辺位置関係図
本能寺想像図


謝辞 Aug/14/2007

この「亀山から本能寺へ」の製作に当たっては、以下のデータ及びツールを利用させていただきました。
これらは全てフリーで公開されています。
この場を借りて、厚くお礼を申し上げます。

地図データ: ASTER全球3次元地形データ
地図作成ソフト: カシミール3D

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