総合目次のページ 「本能寺の変」に関する資料集です 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です
資料 本能寺の変】 [読者のページ] 「あ行」



Aoki Yuuji (丹波光秀軍団) さん のご意見  Mar/14/1999

光秀ほどの鋭敏な男が単なる衝動だけで信長を討ったとは思えない。
必ず、成算があっての事では無いだろうかと思います。
私は、朝廷黒幕説に大いに賛同しています。

信長にとって無為な旧体制は、すべからく邪魔だったのではないでしょうか?
旧態然たる、仏教勢力、足利幕府、純中世的な経済体制や身分制度。
私は、信長であったならば、四公六民くらいの事は後にやったであろうとさえ考えています。
武士階級に代表される封建体制にとり、非常にリスクの高い改革であろうかとは容易に予測できますが、楽市楽座にみられるような、花でなく実を採る政策や思想こそ信長の真骨頂。
それを考えれば、彼があと20年を存命すれば、日本は徳川幕府時代の不毛な200余年を待つことなく、画期的な時代を迎えることができたと推測しています。

それと「朝廷陰謀説」がどうむすびつくか、、、?
足利幕府を葬り去ったそんな開明君主信長に必要だったのは、当時の旧体制の最たるもの朝廷自体を葬り去る事だったのではないでしょうか? もう、信長に朝廷を利用するメリットは消え失せてしまっていたからです。
よく「信長は天子になろうとした」という俗説も流れますが、私はそうは思いません。
朝廷自体が旧たるのに信長が、どうしてその長に就こうとするのでしょうか?
彼の価値観からすると、朝廷の慣習、とりわけ実力、、、武力もないくせ官位や格式など有名無実な事柄で支配しようという行い自体、馬鹿馬鹿しいものは無かったのでないでしょうか。
ですから、あるとしても超越組織を樹立、絶対権力者になろうとはしても、旧態の朝廷の長になって日本を統治しようとしたとは思えないのです。朝廷の解体こそが、信長の目指したものではないでしょうか。

さて、これに危機感を抱いたのが朝廷であり、当時、朝廷と信長のパイプ役を果たした光秀です。格式好きでありインテリである光秀には、到底その発想の理解を超えた思想でした。
そして、何とかそれだけは留めようとします、、、。
そして、織田軍団の実質ナンバー2{朝廷から見れば}光秀に泣き付いたのが朝廷でした。
「日向守、御上を守ってたもれ、、、」そう言われれば光秀は、、、、、、?

以上が私の推測です。
本文中、推測に偏りすぎて具体的な材料の提示が皆無に等しいのですがよくご存知の方に注釈なり補足を頂けましたら幸いです。また、反対意見も有り難く頂戴したく存じます。
よろしくお願いいたします。


秋山 彩香 さん のご意見  Mar/5/2000

ずばり、「本能寺の変の黒幕は、★羽柴秀吉★」です。

  1. 信長の性格は家来達にとって、非常に扱いにくい、怖い存在であったと想像出来ます。

  2. 光秀は信長に、(結果的に)母親を見殺しにされたり、家康接待時に叱責されています。
    それ以外にも朝廷観の違いなどもあったと容易に想像出来ます。
    また血統を考えても、信長より光秀の方が上です。

  3. 光秀にしろ、秀吉にしろ、武人ですから天下獲りのチャンスがあれば、当然狙うでしょう。
    天皇には権威があるだけで、強大な権力は既に失われていました。

  4. 秀吉は光秀にこう打ち明けた。

    「貴方と私で、(家来の)一・二位連合を組みませんか。
    私は貴方の家来になりますから。親方様(信長)にはもう着いて行けない。
    私が親方様を備中までおびき寄せますから。その途中、(本能寺で・・・・・)」

  5. 「成就の暁には、密偵を寄越して頂ければ直ぐに大返ししましょう。他の武将が親方様の敵討ちをしようと思っても、貴方と私の一・二位連合には勝てない筈です。如何ですか?」

  6. 「おお、それは良い考えじゃ。秀吉殿がそうおっしゃって下さるなら鬼に金棒でござる」
    光秀は名を捨てて、実を取った。秀吉は ほくそ笑んだ。

  7. ときは今天の下しる五月かな  光秀

    「土岐氏である私・光秀は、今(今川氏と結縁)まさに、天下に号令する五月(さつき)、即ち、【殺気(さっき)】を持っている事だ!」

    光秀は、足利尊氏が天下を掌握した道筋通りに「本能寺」へ向かった。

  8. 秀吉は予定通り毛利方と和議を結び、光秀に密偵を送り返し、大返しに転じた。
    姫路?で米と金子(きんす)を与え、家来達を奮え立たした。「天王山」に備えて。

  9. 他方、光秀は大返しの秀吉の到着・合流を「天王山」で首を長くして待ち構えていた。
    「天王山」とは「天皇山」の事である。天下分け目の戦いと庶民も承知していた。

  10. 天下を待つ者(秀吉の到着・合流を待つ光秀)と、天下を奪う者(秀吉)の差は歴然としている。実にあっけなかった。
    光秀は「(十)三日天下」だったのです。

  11. 家康は驚き、這々(ほうほう)の体(てい)で逃げ帰った。

  12. 秀吉は「天下を制した」が、後年、家康に「天王山」の仇を取られた。
    家康は、柳生を使い小早川秀秋を関ヶ原の戦いで寝返えさせる事に成功。(柳生はその功に依り、やがて大名に。)
    更に、秀秋の家老・稲葉なにがしの妻=明智光秀の娘・のちの春日局(かすがのつぼね)を正妻として迎えている筈です。
    家康は「光秀の血統の良さ」を承知していたゆえの措置です。
    単なる乳母ではありません。

【私見】は、

春日局=太上天皇、家康=天皇、に位置する統治方法を執っていたと思います。
鎌倉幕府の「北条政子」も、室町幕府の「日野富子」も太上天皇だったのです。
もちろんそういう呼び方はしなかったでしょうが。
将軍の母の「~院」=太上天皇の呼称と一致しています。
徳川二代将軍は「秀忠」であり、三代将軍の名は「家光」です。
【家】康+【光】秀=【家光】なのです!
「家康と春日局の子」だったのではないでしょうか。

なお、

鳴かぬなら
    殺してしまえ
    鳴かせてみしょう
    鳴くまで待とう
         

    ほととぎす【物部→源氏→足利氏等の寓喩】

--------------------------------------

● 蛇足

 我が国の歴史は「万世一系」ではありません。 (★『万葉集』 ☆『枕草子』)

「春」= 天智系

★ 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春【天智系の世】に~
☆ 春はあけぼの = 天智系は日の出の勢い

「夏」= 物部(石上・いそのかみ)・天武系

★ 春過ぎて夏【天武朝】来たるらし~
☆ 夏は夜 = 天武系は滅亡間近

「秋」= 蘇我大王家

★ 「千秋万歳」皇極&聖武天皇 「秋山われは」=額田王
☆ 秋は夕暮れ = 蘇我大王家の勢いは日の入りに

「冬」= 藤原系

★ 冬相聞「わが背子と二人見ませば幾ばくかこの降る雪の~」光明皇后
☆ 冬はつとめて(早朝) = 藤原系は新参者

● 日本の歴史の謎では、「本能寺の変」が最も難しいとは思いません。

最も難しいのは、「人麻呂の正体」でした。
「山柿の門(赤人+人麻呂)」、「君(憶良=借名の聖武天皇)臣(人麻呂)合体」が最も難しく、「聖徳太子【大津皇子の追号(諡号)】→聖武天皇」に興味があるか、理解できる人が居れば、メールを下さい。

天平【勝宝】折り込み歌

銀も金も玉も何せむに【勝】れる【宝】子にしかめやも  憶良【借名の聖武天皇】

--------------------------------------

疑問・質問には解る限り、お答えします。

『万葉集』が専門の  秋山 彩香(あやか)

--------------------------------------

春日局   編者注   Mar/5/2000

春日局(お福)は、明智光秀の重臣・斉藤利三の末娘とされるのが通説のようです。『寛永諸家系図伝』
利三が本能寺の変後に処刑された後、お福は土佐の長宗我部元親の庇護を受けたとされます。(出典不詳)
これは、長宗我部元親の内室が、斉藤利三の妹(正確には義妹、利三の母が再嫁した先の子、【覚え書きノート】)であることによるものと思われます。
更に後、お福は稲葉正成に嫁ぎますが、この稲葉正成はかつて稲葉一鉄の家来で、後に、ご説の通り小早川秀秋に従います。(出典不詳)
そして実は、お福の父である斉藤利三もまた、(光秀に臣従する前は)稲葉一鉄の家来でした。『続武者物語』


上杉 貴彦 さん のお願い  Jan/6/2001

『総見記』
『柏崎物語』
『義残覚書』
『続武者物語』
『落穂雑談一言集』
『兼見卿記』
『甲陽軍鑑』
『林鐘談』
『秀吉事記』
『豊鑑』
『永禄六年諸役人付』

の各資料の原文を探しているのですが、なんと言う本に載っているのか教えてください。


右近左近 さん のご意見  Dec/20/2000

はじめまして。みなさん凄い理論をお持ちなので辟易たるものがあります。
私もいずれは公の場を借りて執筆したく思う者ですが、こういったスタンスでおります。

(羽柴秀吉・中国大返しの真意)

(家康・神君伊賀越え)

(朝廷介在説)

(光秀=天海説)


大久保 剛史 さん のご意見  Sep/26/1999 , Nov/28/1999改訂

本能寺の変、真の理由

信長は朝廷を利用し天下を取る方法では本当の天下取りにはならんと考えていた。
第二第三の勢力が朝廷を担ぎ出し自分に謀反を起こす、そしてこの時代の混乱の原因は公家の漁夫の利政策である感じていた。
公家朝廷をいつか滅ぼさねばならないと考えていた。
この野望の実行は天下平定の後より今の時が好機であると判断した。
何故ならば四国、九州はまだ、手付かずつかずであったが、この公家朝廷の殲滅を後にしては、信長包囲網が再構築される。
また公家朝廷を殲滅する事により、戦乱に疲弊した戦国大名達を全てではなくとも自己の軍門に下せると思った。
公家寄りの光秀はそれに気付き、信長を本能寺で暗殺、この信長の謀略を阻止しようとした。

根拠

  1. 公家、朝廷も信長に殺害される不安を感じていた。
    今川義元に対する突然の奇襲攻撃、また比叡山を焼き討ち何千もの人間を殺害した男だから。

  2. 信長は公家を油断安心させるため、秀吉に中国征伐を命令、軍勢を移動させた。
    ただし5日で京へ戻れる様に命令していた。
    この時、信長と秀吉の胸中には今川義元を倒した時の作戦が去来していた。

  3. 秀吉は中国方面へ転戦した。
    ただし今度の目的は戦ではない。いかに早く、京へ戻るか、ただそれだけであった。復路には食料確保、休憩地確保のため、人材と金をつぎ込んだ。

  4. 秀吉は京決戦のために兵力温存型の戦(高松城水攻め)をいい加減にやっていた。
    そして英気を養い、ひたすら時を待っていた。
    また高松城にはその他の出城が多いものの小規模な野城の集合体、高松城そのものも秀吉の軍勢4万の敵ではない筈。
    3日で落とせる城、所詮水没してしまう様な城に何故1ヶ月以上の手間をかけているのか?

  5. ここで秀吉は不可解な行動をする。
    九分九厘勝ちの決まった楽な戦を、先々に伸ばし、「苦戦している」と戦の窮状を信長に訴え、援軍の要請をしている?
    後の世にこの事は最後の勝利の戦を信長様にプレゼントする、秀吉、一流のゴマスリと言われている。
    本当にそうであったか。
    秀吉はここでスンナリ勝ってしまたら、自分が高松城へ入城、新城主として釘付けになってしまう。それよりも予ねての手はず通り、光秀をおびき出し、勝利のてがらの戦をさせ、その功績で高松城の城主として封じ込める、これが最善の策と判断した。

  6. 信長はこの作戦の一番の邪魔は、公家寄りの光秀であると判断していた。
    事実、光秀を京から中国攻め援軍と赴任させた。

  7. 聡明な明智光秀は、信長の野望の実行が近いと判断した。
    当然、自分が公家朝廷の命を助けるのだから、公家朝廷は全て味方になるものと思い、信長に先制攻撃を仕掛けた。
    信長の野望を阻止するのは今しかない。
    「敵は、本能寺」であった。

  8. また信長の光秀に対するいじめの真相。
    信長の明智光秀に対するイジメは全て計画的な芝居であった!
    信長は「明智光秀が信長にいつもいつもイジメられている」という噂が必要だった。それも一人でも多くの人間に知られることが。
    森蘭丸や小姓にまで命令して、しかもより多くの人間にが見ている前でいじめの芝居をさせた。
    では何故この「信長は光秀をイジメてばかりいる」という噂を信長自信が必要としたのか。
    それは信長が、聡明な明智光秀に謀略を悟られはしないかという不安を持っていた、そして、そのことが光秀の口から露見するのが恐かったからです。
    光秀が「信長に謀反の疑いあり」と発言したとしても、「それは信長にイジメられている恨みからか?」と思われ、誰にもとりあってもらえないようにするためです。そのためにはより多くの人間が知らしむような大恥じが絶対に必要であった。

  9. 秀吉の中国大返しの早さ(10日)。
    中継地の姫路城に着いた前後は集中豪雨であったとも史実にはある。実質的に3万の軍勢を5日で180Km、雨中移動させた事になる。これは既に用意周到な準備がされていたと判断せざるを得ない。

  10. 山崎手前での摂津衆援軍との出会い。
    これはfile:///C:/Personal/HomePage/HJ/Mail/MailKA.htm#Katsunoriすでに公家朝廷殲滅の筋書きに折込み済みのことであり、対象が公家朝廷から明智光秀に変わっただけであった。

  11. 明智光秀の坂本城は、琵琶湖を守りに利用した水城であり堅牢な城である。本格的な篭城になれば半年以上は持つ城が、わずか3日で落城?
    高松城とは全くの逆である? 大不可解!
    これも、明智光秀が公家朝廷を連れて篭城したときの事を予見し、なんらかの仕掛けがされていたのではないかと疑わざるを得ない。

以上が本能寺の変の本当の理由と、推測の根拠です。


大久保剛史さんの

『本能寺の変をテーマとした時代小説』

  http://homepage1.nifty.com/takasi_okubo/



総合目次のページ 「本能寺の変」に関する資料集です 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です