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それと、よく光秀と信長は"好対照の存在"であるとか、光秀が"よく諫められた"とあるが、あれは二人の芝居で、信長は光秀をかなり信頼していたのではないでしょうか。
また、信長が"叡山の焼き討ち"や"長島の虐殺"などの行為は、光秀の意見で行ったことで、二人の目的である"天下統一"のための見せしめにしたように思う。
私は、光秀が好きでいろいろ小説などを読み、自分で考えてみた"勝手な"考えです。
ただ、"光秀"と言う人を世間が"逆臣"だの"三日天下の愚か者"と言われるのが悔しくて、このように書かせていただきました。
思うに任せて書きましたので乱文ですみません。
光秀が信長を討った理由がなんであるのか、・・・天皇黒幕説かもしれないし、天下を欲していたのかもしれないし、信長と反りがあわなくなってきたためかもしれないし・・・理由はひとつではないかもしれないし・・・諸説どれもがありえそうで、そのひとつひとつを想像するのは、私のたのしみのひとつです。
こちらのホームページでは、説のどれかを重視するという決め付けがなく、視野の広い、読み手のロマンに沿った説を読み選びさせていただけるので、とても嬉しいです。
また、本能寺の見取り図は有りがたく見せていただきました。
どうぞこれからも素敵なホームページで楽しませてくださいませ!
管理人 Jan/27/2000
山田 由紀 さん のご意見 URL: らぶらぶ権六ちゃん May/7/1997
(あと、信長と光秀の愛憎関係のもつれ説ってのも、なかなかおもしろいですけれども、こうなるとミーハーというかおバカという感じなんで、ちょっと遠慮しておきましょう。(笑))
RYO さん のご質問 URL: 金森戦記 Aug/18/2001
この人物で知っていることがあったら教えてください。
RYO さん からのお便り URL: 金森戦記 May/31/2003
まさしく墓には桔梗の門がありました。
勿論、後世の創作でしょうが、岐阜県美山町(現山県市)の墓の案内には、山崎の合戦で死んだのは影武者の「荒木山城守行信」という人物で、光秀は美山町(現山県市)に逃れ、影武者の荒木の忠節に感謝して、荒木の「荒」と感謝を深く感じて「深」、「荒深小五郎」と改名して、この地で暮らして、18年後の関ヶ原の戦いに、この地から出陣して途中の根尾村の敷川の洪水にまきこまれ死んでしまい、荒木山城守行信の子供が死骸を持ち帰り美山町に埋葬したらしいです。
なんかかなり疑わしいですがなかなか、おもしろい逸話だなと思いました。
明智光秀=荒深小五郎だそうです。
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