中沢、豊後 [なかざわ]
中御門宣光 [なかみかど のぶみつ]
- 永禄12(1569)-寛永3(1626)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- 「変」当日、誠仁親王の当番として二条御所にあり、親王が御所に移る際に供をする。
中山親綱 [なかやま ちかつな]
- 天文13(1544)-慶長3(1598)
- 中納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
中山慶親 [なかやま よしちか]
- 永禄9(1566)-元和4(1618)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- 「変」当日、誠仁親王の当番として二条御所にあり、親王が御所に移る際に供をする。
並河易家、掃部 [なみかわ やすいえ、かもん]
- 丹波出身、光秀の家臣
- 「山崎」では、山手(右翼)を担当する。
鳴海助右衛門 [なるみ すけえもん]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
西洞院時通 [にしのとういん ときみち]
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
西坊行祐 [にしのぼう ?]
- 愛宕山の僧
- 天正10(1582)年6月1日、光秀の興行した「愛宕百韻」に加わる。
二条昭実 [にじょう あきざね]
- 天文15(1546)-元和5(1619)
- 右大臣
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れ、後、織田信忠を二条御所に訪ねる。
丹羽長秀・五郎左衛門、惟住 [にわ ながひで・ごろうざえもん、これずみ]
天文4(1535)-天正13(1585).4.16
織田家譜代家臣
天文19(1550)年(天文18(1549)?)、信長の近習として出仕。この時信長17才、長秀16才。
天文22(1553)年ごろから馬廻衆として転戦し、次第にその力量を認められるようになり、以降も光秀・秀吉らと共に京幾の行政を担当するなどした。
天正10(1582)年、信長の三男信孝を総大将とした四国征討軍に副将として加わり、堺で待機していたところ、信長自刃の報に接し、信孝らと大阪城にあった光秀の娘婿織田信澄を襲撃、城内の千貫櫓にいた信澄を攻撃して自刃させ、13日、秀吉と合流して「山崎」に加わる。
「清洲」では秀吉を支持、「賎ケ岳」にも秀吉陣に加わり、柴田勝家を北庄に追い攻め滅ぼした。
天正13(1585)年4月、病にかかると、「命を奪わんとする正体を見届けん」と自ら腹を切り、腸をえぐり出して死んだという。(長秀は、柴田・秀吉・滝川・光秀と異なり与力を持たず、終始信長の直轄軍として働いてきた。信長からの信が篤く「変」の前の家臣団内の序列としては、柴田勝家に次ぐものであった)
庭田重通 [にわた しげみち]
- 天文16(1547)-慶長2(1597)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
庭田重保 [にわた しげやす]
- 大永5(1525)-文禄4(1595)
- 権大納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- 「変」当日、誠仁親王の当番として二条御所にあり、親王が御所に移る際に供をする。
沼田光友 [ぬまた みつとも]
- 光秀の家臣
- 「変」後、光秀が細川父子に来援を求める際に、書状を持参した。
- (「変」後)光秀より沼田権之助光友を使として、信長我ニ度々面目を失ハせ、我儘之振廻のミ有之ニ付、父子ともニ討亡し積鬱を散し候、人数被召連、早々御上洛有て何事をも能々計ひ可給、摂州幸闕国なれハ先御知行可有との趣也、(中略)忠興君忿怒の余り沼田を殺さんと被仰候、藤孝君使には咎なしとて再三是を留めて御かへし被成侯、沼田ハ御父子の御義心を感し、藤孝君に便り御当家へ御奉公仕度旨懇ニ相願侯ニ付て、御家人ニ被召加、長岡権之助直次と改申候、【綿考輯録 第二巻 巻九】
野々村正成 [ののむら まさしげ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、「変」により二条御所で討死。
野々村又右衛門 [ののむら またえもん]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の留守番衆を命じられる。