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家康の関ケ原】 [第四章 豊臣秀吉の遺産]


秀吉、未練を残したまま逝去する

秀吉は、病床に伏すようになり、政務を執ることができなくなると、五大老の徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家、五奉行の前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家に、秀頼が成人するまでの間、五大老と五奉行の合議に基づいて、政権を運営するよう求めました。
それに対して、五大老と五奉行は、互いに血判のある誓書を交わして、「五大老・五奉行体制」の堅持を確認し合います。
それでもまだ不安だったのでしょうか、秀吉は、五大老や奉行衆に幾度となく、秀頼に忠誠を尽くす旨の誓書を差し出させています。
加藤清正・福島正則・黒田長政ら秀吉子飼いの武功派大名と、三成・増田長盛・長束正家ら吏僚派との確執や、正室北政所(ねね)と秀頼の生母淀君(茶々)の反目、加えて、常々「りちぎ(律義)」と評していながら、どうしても全幅の信頼を置くことができない家康の存在など、豊臣家の将来に対する不安は絶えず、その不安を打ち消そうと、山のような誓書が取り交わされました。

いよいよ、病が亢進すると、家康・前田利家を枕元に呼び、家康には筆頭大老として伏見城で政務を司り、次席の前田利家には秀頼を補佐するよう依頼します。
そして、慶長3年8月18日辛未(1598年9月18日)、信長の後を継いで全国を制覇した豊臣秀吉が、六十二歳の生涯を閉じました。

その辞世の句は、

つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ 松
(露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢 秀吉)

というものです。
この中の「浪速のこと」は、豊臣家の後継である秀頼を指しているのでしょう。


秀吉の最後の望み

更に遺言状は、

秀よりの事       (秀頼のこと)
なりたち候やうに    (成り立つように)
此かきつけ       (この書き付け)
しゆとしてたのミ    (五大老衆に頼み)
申候 なに事も     (ます。何事も)
此ほかにわおもい    (此の他には、思い)
のこす事なく候     (残すことはありません。)
     かしく

返々秀よりの事     (かえすがえすも秀頼のこと)
たのミ申候 五人    (頼みます。五人)
のしゆたのミ申候    (の衆、頼みます。)
いさい五人の物ニ申   (委細は五人の者に申し)
わたし候 なこり    (渡してあります。名残)
おしく候 以上     (惜しく思います。以上)

8月五日 秀吉 御判

いえやす        (徳川家康)
ちくせん        (前田利家)
てるもと        (毛利輝元)
かけか津        (上杉景勝)
秀いへ         (宇喜多秀家)
      まいる

というもので、秀頼のことや豊臣家の行く末をどれほど案じていたかが、よく分かります。
もはや、精力的な秀吉の面影はなく、こうすることでしか、豊臣家を存続させることはできないと、恥を忍んでの懇願です。
この年、その秀頼はわずか6歳でした。

その後も、秀吉の遺命を遵守し、秀頼に忠誠を尽くす旨の誓書の交換は繰り返されました。
しかし、間もなく、秀吉の杞憂は、現実のものとなります。


家康、動き出す

生前、秀吉は朝鮮へ兵を出していました。
そこで家康・前田利家は、混乱を防ぐため秀吉の死を秘して、慶長3年8月25日戊寅(1598年9月25日)、諸隊を帰国させるため、三成・浅野幸長らを博多に派遣することを命じます。
そして、三成らの留守を狙うように、家康は、六子忠輝に伊達政宗の長女を迎え、松平元康の女を養女として福島正則の子正之に、小笠原秀政の女を養女として蜂須賀家政の長子至鎮に、嫁がせようと盛んに接触を重ね、加えて、三成に恩義のあった島津義久と会見するなど、精力的に動きます。

これに対し、四大老と五奉行は、慶長4年2月2日壬子(1599年2月26日)、家康の行動は秀吉の遺命に反すると詰問します。

この遺命というのは、これよりかなり溯った文禄4年、いわゆる「関白秀次事件」の直後に発布された「御掟」を指しますが、これは、

一、諸大名の間で、私に婚姻関係を結ぶことを禁ずる。
二、諸大名の間で、同盟関係を結ぶことを禁ずる。
三、喧嘩や口論を禁ずる。
四、讒言をした者はこれを糾し、成敗すること。
五、乗物などは許された者以外使ってはならない。

という五ヶ条からなる豊臣政権の指針となるもので、五大老の連名で発布されていました。

家康の名も、もちろん、そこにあるわけです。その家康が、秀吉の死を待っていたかのように、公然とこの掟を反故にしようとしました。
しかし、家康は逆に、『糾問使に反駁して、自分が天下に対して異心を抱いているがごときは誰の讒言であるか答えよと問い詰め、さらに自分を秀頼の補佐から除外するとの申しようは、それこそ太閤秀吉の遺命に背くものにあらずや』と、「御掟」の四条目を持ち出した上に、「十分納得できる説明がない場合は、五大老の列から外れていただく」という申し入れに対して、秀吉の遺言を持ち出すなど、自らの非を棚に上げてやり込めた上に、『かの私婚のごときは、ただ一時の遺忘にすぎない』ととぼけてしまいます。

(『 』は【関ケ原合戦】から引用させていただきました)


豊臣家最後の頼み、前田利家が没する

私婚の禁止は、後の徳川幕府の「武家諸法度」にも表れるもので、これを「忘れていた」と言い放つ家康には、秀吉亡き後の豊臣家の中にあって、自分を凌ぐ者はいないという自信があったのでしょう。
逆に、そうした自信がなければ、こうした高圧的な態度を示せないのが、家康の性格でもあるように思います。

その少し前の慶長4年正月10日辛卯(1599年2月5日)に、秀頼は、秀吉の遺命に従い大阪城に移っていました。
補佐役を命じられていた前田利家以下奉行衆が付き添っていました。しかし、その利家が、大坂に移って2ヶ月後の閏3月3日壬子(1599年4月27日)、病没してしまいます。
武功派らの軽挙を抑え、家康の専横を牽制できる、ただ一人の、そして最後の、人物でした。

もはや家康の前に立ち塞がるものは、幼少の秀頼以外に、何もなくなってしまったのです。
恐らく、家康のそれまでの「単なる自信」は、「動かしがたい自信」に昇華したはずです。
それに引き替え、秀吉の遺産を守ろうとする三成らの焦燥は、限界に達しようとしていました。
三成らの奉行衆は、たびたび家康を襲う機会を狙いますが、藤堂高虎や細川忠興らの密告で、家康は危機を逃れます。
こうした三成らの行動は、武功派の吏僚派に対する反目感情を増長することになり、ますます彼らを家康に近づける結果となりました。

しかし、それこそが家康の望むところだということに、三成らは気付きませんでした。


関白秀次事件

天正17年5月29日乙亥(1589年7月11日)、秀吉にとっての初めて子鶴松(鶴丸、棄丸、母は側室淀殿)が誕生します。秀吉はこの時、53歳でした。
それまで、秀吉には子がなく(異説があります)、後継の思案もしなければならない年齢でしたから、喜びは一方ならぬものがあったでしょう。
しかし、天正19年8月5日戊戌(1591年9月22日)、僅か三歳で鶴松は死亡してしまいます。追討ちをかけるように、翌天正20年7月22日庚辰(1592年8月29日)には、生母大政所が亡くなります。
秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)を決意したのは、相次いだ傷心を癒すためだったとも言われているほどの悲しみようでした。

そこで秀吉は、姉の子で養子に迎えていた秀次に関白職を譲り、自らは太閤を称します。
(子に恵まれなかった秀吉は、何人かの養子を迎えていましたが、後に小早川秀秋を名乗る妻北政所の弟の子もその一人でした)
つまり、豊臣家の後継に秀次を選んだわけです。高齢であった秀吉にとっては、止む得ない選択ということだったのでしょうか。

ところが、文禄3年8月3日己酉(1594年9月17日)、秀吉の第二子拾丸(ひろいまる、母は淀殿、後の秀頼)が誕生します。そうなると、後継には実子を、というのは親心でしょう。が、問題は、後継に指名したばかりの秀次の扱いです。
その頃から、秀次についての良からぬ噂が立ち始めます(どうも、秀次を除こうとする意図が感じられます)。
秀次は、「殺生関白」などと呼ばれるようになり、そして、文禄4年7月8日己卯(1595年8月13日)、それを理由に、秀吉は、秀次の官職を解き、高野山に追放して切腹を命じ、更に、秀次が切腹した後、その妻子ら三十余人を処刑しました。

こうして、拾丸が豊臣家を継ぐことになったのですが、この強引な措置によってできた傷は深く、秀吉自身もそれに気付いていたのでしょう、豊臣家の存続させるために、五大老(年寄)・五奉行制をとることとし、「御掟」「御掟追加」を定めることになります。【豊臣秀吉のすべて】


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