本能寺・妙覚寺襲撃の謎 目次



本能寺・妙覚寺襲撃の謎 付録4

<「本城惣右衛門自筆覚書」に関するデータ>

昭和5年(1930)年1月
先ずはじめに林若樹(はやし わかき、本名:若吉)氏がどこからかこの書を入手し、「一野武士の告白」を雑誌「日本及日本人」に発表し、「本城惣右衛門覚書」を紹介しました。
昭和13年(1938)7月12日
林若樹氏が死去(64才)
昭和13年(1938)9月22日
林氏の蔵書(若樹文庫)が処分されることとなり、この日、売立。この時、弘文荘の反町茂雄氏が「本城惣右衛門覚書」を落札。「若樹文庫」落札の模様、「若樹文庫」について、及び林若樹氏の人となりについては、反町茂雄氏「一古書肆の思い出 2(平凡社ライブラリー 1998年7月刊)」に詳しく書かれています。ただし、「惣右衛門覚書」の名は出ていません。
昭和14年(1939)6月26日
弘文荘「待賈(たいか)古書目第13号」に「惣右衛門覚書」紹介文が掲載される。写真2葉が付される。都立中央図書館請求番号(図書扱い)/0258/K717/K1-13
昭和14年(1939)6月
「惣右衛門覚書」、弘文荘の手を離れる。
昭和17年(1942)
林若樹著「集古随筆」(1942年刊、大東出版社<大東名著選>)に「一野武士の告白」が収録される。都立多摩図書館請求番号:Y/Y4857。
昭和30年(1955)
戦後、小説家の富田常雄氏がこの史料を使って「惣右衛門嘆き」を書きました。この作品は講談社編「十四人の信長(1991年11月)」に収録。
昭和33年(1958)
地方誌「兵庫史学(丹波史談)No.16」に臼井芳郎氏が「奥丹波の城下村と地侍」を書き、この中で「惣右衛門覚書」の一字句を引用。 "この上に昔より、良き城があり"
頃年不明
東京大学史料編纂所にて「本城惣右衛門覚書」の影写本が作成される。<(寛永)十七年八月吉日、本城有介覚書、史料編纂所架蔵影写本「佐佐木信綱氏所蔵文書」二>。
これについては、藤木久志氏「雑兵たちの戦場(朝日新聞社刊、1995)」P.87参照。この藤木氏の本は雑兵の立場から記述された「惣右衛門覚書」を読解するための必読文献。
昭和41年(1966)
神田古書肆一誠堂を介し天理大学図書館の館蔵に帰す。備考:巻末に印記あり。「月明荘」及び「竹柏園文庫」(佐佐木信綱博士の父弘綱氏が竹柏会を主催。信綱博士の号は竹柏園<なぎその>)
昭和43年(1968)4月
岩沢愿彦氏が論文「本能寺の変拾遺」(「歴史地理」第91巻第4号)を発表され、この中で「惣右衛門覚書」にある一字句を引用。
昭和49年(1974)6月
天理図書館報「ビブリア」No.57所載<業餘稿叢十五>に「本城惣右衛門覚書」全文が翻刻される(木村三四吾氏解説)。都立中央図書館(雑誌請求)。
昭和51年(1976)
木村三四吾編「本城惣右衛門覚書」(私家版)
昭和51年(1976)3月
木村三四吾編「業餘稿叢」。国会図書館請求番号:GB22-18
昭和58年(1983)4月
青裳堂(せいしょうどう)書店より「林若樹集(日本書誌学大系28)」が刊行される。この中に「一野武士の告白」が収録される。都立中央図書館請求番号:/0818/202/83
平成7年(1995)11月
藤木久志氏が「雑兵たちの戦場」で「惣右衛門覚書」の一節を引用(P.70)。
平成10年(1998)10月
木村三四吾著作集3「書物散策-近世版元考」が発行され、この中に氏の惣右衛門覚書解説文が収録される。
平成11年(1999)9月
岡田正人氏が「織田信長総合事典」を出され、この中で「惣右衛門覚書」を紹介される。
平成12年(2000)5月31日
NHK「その時歴史が動いた<敵は本能寺にあり>」が放送され、この中で「本城惣右衛門覚書」が原本の映像とともに紹介される。
平成12年(2000)10月
NHK取材班・編「その時歴史が動いた2」が発行され、この中に番組の内容<敵は本能寺にあり>が活字化される。



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