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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][妙顯寺]
天正十年六月二日、本能寺の変、明智勢、次いで妙覚寺の織田信忠を討つ-妙顯寺-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
日蓮宗 大本山 妙顯寺(公式ウェブサイト)
妙顯寺(妙顕寺)
撮影場所(Google マップ)
本能寺の変当時、妙顯寺(妙顕寺)があった場所です。
本能寺の変の後、妙顕寺は、羽柴(豊臣)秀吉の命により、上京区妙顕寺前町514に移転しました。
妙顕寺のウェブサイトに、
本能寺の変後、豊臣秀吉の命により、堂宇を現在の地である小川寺之内に移転、今日の伽藍の形が定まりました。
とあります。
豊臣秀吉妙顕寺城跡
撮影場所(Google マップ)
本能寺の変当時、妙顯寺(妙顕寺)があった場所です。
本能寺の変の後、妙顕寺は、羽柴(豊臣)秀吉の命により、上京区妙顕寺前町514に移転しました。
妙顕寺移転後、同所に、羽柴(豊臣)秀吉により、妙顕寺城が建てられたとされます。
この案内板には、
豊臣秀吉妙顕寺城跡
この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城の故地である。妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。天正一一(1583)年九月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させて、あとに二条新邸を構築し、天正一四年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらして天主をあげていたという。したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。現在城跡はしのぶべくもないが、古城町という町名となって、よすがを伝えている。
京都市
とあります。
案内板にある[豊臣秀吉]は、本能寺の変後に妙顕寺城を築いた時の名で、本能寺の変当時は[羽柴姓]を名乗っていました。
豊臣姓を称するのは天正十三年九月以降とされます。[豊臣秀吉事典、杉山博編、新人物往来社]