[小説 時] [18 名刺] |
18 名刺
姉が出掛けて誰もいなくなった家は、ひたすら静かだった。居間のテーブルの上には、今日の新聞と、一枚の名刺があった。新聞は、もう午を過ぎていると云うのに、読まれた様子がなかった。名刺は、新聞の横に並べたように置いてあった。そこには「弁護士」と云う文字が見えた。苗字は有り触れたものだったが、名前は読みが分からなかった。 一枚だけの名刺が、不自然で、いかにも落ち着かなかった。少なくとも、それ以外に、母が不本意にも関わってしまった事故の、もう一方の当事者の名前の書かれた一枚が、ある筈だと思った。新聞を持ち上げ、テーブルの下を覗き込み、状差しを繰り、抽出しを掻き回し、住所録をめくった。・・・相手の名前が、少し前に聞いたばかりだと云うのに、どうしても思い出せなかった。 或いは、そもそも、名刺を置いて行く必要のない人物だったのかもしれない、・・・。そう、・・・そう云えば、男は、父が後援会の会長を務める議員の秘書だと云うことだった。それなら確かに、見つからない理由は分かる、・・・しかし、そんなことが、あり得るのだろうか、・・・。 父は、帰って来た。酔ったように、赤い顔をしていた。 お母さんは、大丈夫なんだよね? さあ、・・・難しいかもしれない。今朝、連絡があった。 手術はどうだったの? 聞いてないのか? 誰も話してくれないんだよ。 あの連中の説明は、良く解らん。・・・はっきりとそう言った訳じゃないんだが、どうやら、母さんが助かる見込みは、・・・殆どない。 どうして? 父さんは医者じゃない。 手術は無事に済んだんだろう? 済んだ。 それなら、何の問題もない。 手術は、確かに、済んだ。・・・確かに、・・・。 それじゃ、・・・間に合わなかったってこと? いや、そうじゃない。 そうじゃない、って、・・・じゃ、どう云うこと? 出血が、予想以上だったらしい。 誰の予想なの? 誰の?・・・医者の他に、誰が予想できる? 病院が、適切な救急処置を取れなかったのかもしれない。適切な処置を取れないような病院だったのかもしれない。 そんなことはない。 事故が起きてから病院に担ぎ込まれるまでに、担ぎ込まれてから手術を始めるまでに、時間が掛かり過ぎたのかもしれない。 そんなことはないだろう。・・・あの秘書も医者も、良く知ってる。 ・・・そう。・・・じゃ、やっぱり無理なんだね? 助かるようなら、もう少し言いようがあったろうな。 -Aug/31/1997-
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