[小説 時] [26 自由] |
26 自由
一時間程して、看護婦がやって来た。身体から何本もの管を垂らした母が、その先に継った器械を引き摺って、新しい最後の部屋に移った時には、自らの意志で息をしているのかどうかさえ、確認することができなかった。只、モニタに描かれる規則的な波形だけが、微かな慰めだった。 此処では、生と死との差が恐ろしい程に小さかった。そして、それがそうであることに、何の違和感も感じられなかった。しかし、恐らくそれは、この建物から一歩でも外へ出れば、滑稽な程忌わしいことに違いない、・・・そうした、座り心地の悪い椅子に座っていながら、どうしても立ち上がることができないと云うような、内に籠った焦燥がそこにあった。 姉は母の手を握り、叔母は足をさすりながら、繰り返し声を掛けた。声は次第に小さくなった。じっと見ている外には何もできなかった甲斐性のない男共は、それが押し殺したような声に変わると耐え切れずに部屋を出た。そればかりではない、今は、どんなことにも、耐えられる自信がなかった。 部屋を出ると、それを予期していたかのように看護婦が寄って来た。そして、四人は院長の待つ部屋へ案内された。院長は鉛筆を弄びながら、生気のない男達を迎えた。 どれ位保つかな? 今では、人工呼吸器がなければ、自ら呼吸することもできないような状態です。 と云うことは、それを外せば、・・・それで終わりか? 残念ですが、その通りです。・・・只、今まではづっと集中治療室で、面会も制限されていましたから、せめて今夜は、と云うことで部屋を代えました。 で、何時なんだ? 明朝、と云うことでは如何でしょうか?・・・この儘の状態が何時までも続くことは、あまりお勧めできることではありませんが、・・・しかし、もし、ご希望があれば、・・・。 いや、別にない。・・・委せるよ。 何のお役にも立てなかったようで、それが大変残念です。 ・・・感謝してる。 ありがとうございます。 急だったな。 一時は、期待したんですが、・・・。 何故、容態がこんなに急変したんでしょうね? どう云うことですか? 腑に落ちないことが多いとは思いませんか? もう良い!・・・分かった。・・・今夜は、娘が傍を離れないだろうから宜しく頼む。 叔父は、叔母に院長の話を伝える役を引き受けた。時間の掛かった短い話が済むと、四人は揃って病院を出た。 後は、待つだけになった。 まんじりともしなかった夜が明けた。 夜が明けるのを待っていたかのように、母に纏わり付いていたものの全てが、取り払われた。 母は、自由になった。 -Sep/14/1997-
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