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[小説 時] [36 問題]

36 問題

 大変だったわね。
 まだ、終わった訳じゃない。
 もう少しよ。
 いや、これからさ。
 明日、会える?
 帰りたいんだ。
 まさか、・・・良いの?
 何が?
 だって、・・・。
 そうだね。・・・帰れないだろうな。
 帰る前に、一度、会える?
 判らない。
 どうして?
 会いたいな。
 声が聞こえるわ。まだ、終らないのね。
 そうさ。連中の胃袋ときたら、全く信じられない程強靱だ。
 あした朝、もう一度電話を貰えない?
 あしたのことは、・・・とても自信がない。
 それなら、きっと、きのうのことは覚えていないんでしょうね?

 片付けも終わって、母の回りだけが明るかった。叔母は「もうこんなことはうんざりだわ」と言いながら、姉を連れて階段を昇った。男だけが取り残された。しかし、口を利く元気もないと云ったふうに、殆ど話らしい話をすることもなく深い溜息を挨拶代わりに、次々とそれぞれの部屋へ引き取って行った。

 夜は、始まったばかりだった。

 ブランデーの瓶とグラスを抱えて、部屋に戻った。締め切っていた窓を開けると、圧倒するような虫や蛙の声と、依然として鎮まり切らない暑気と、草の匂いを含んだ微かな風と、明りを必要としない程の月の光が、一度に勢い良く流れ込んで来た。

 椅子に腰を降ろして、透明な褐色の液体をグラスに注いだ。軽やかな音がした。氷の転ぶ音がした。

 自分はこの机と椅子から創り出された。机の落書、英単語、周期律表、数学の公式、・・・。古びたノートが抽出の中にあった。その中の一冊を取り出してみた。解いた跡のない問題だけが並んでいた。そう、・・・難解な問題に出会うと、何時か解いてみようと、こうして写しを取っておくのが習慣だった。しかし「何時か」は、結局、抽出の外へ出ることはできなかったし、やっと外へ出ることができた今では、既に、問題の主旨を理解することさえ覚束ないと云う有様だった。

 半分以上が空白の儘だった。鉛筆を取った。突然だった出来事の一部始終を、なぞってみようと思った。そして、すぐに、父と院長から聞いた要領を得ない話を除いて、殆どが当事者以外から聞いた確かめてもいない話ばかりだと云うことに、自分の眼にしたものがあまりにも少ないと云うことに、気付いた。驚く外はなかった。

 問題は書き落とされた。

 今度こそ、解かずに済ませてしまうことはない、と考えていた。

-Oct/4/1997-

・・・つづく・・・



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