[小説 時] [112 浴室] |
112 浴室
果して手紙はあった。手にすれば、いかにも手ごたえのない一通が、あらゆる意味で最後の一通なのだと云う予感がした。それでも、すぐに開けてみようと云う気にはなれなかった。今の話を忘れるための時間が必要だった。まず、熱いシャワーを浴びて着替えを済まそう、その頃にはこの部屋も幾らかは暖まっているだろう、それから氷をたっぷりと入れたグラスを用意して、指三本分のウイスキーを注ぐ、バランタインの17年が良い、・・・。そして待つ、氷が嘗つて液体であった頃の記憶を取り戻すまでの間、・・・。間もなく、透明な世界では蠱惑するような踊りが始まるだろう、そして、それを飢えた胃に流し込む、・・・。 浴槽の中に腰を降ろしながらシャワーを浴びる、外の寒さも此処までは届いて来ない、どんな煩悩も此処に入り込むことはできない、・・・。冷え切っていた浴室はすぐに暖まり始めた。切れ目のないシャワーの音と重さが心地良い、・・・。 濡れた身体を拭い着替えが済む頃には、机も椅子も壁も床も、ようやく温もりが感じられるようになっていた。大き目のグラスを用意して、それにたっぷりの氷を入れる、・・・17年はもう残り少ない、ホワイトホースの12年がある、これが良い、封を切って三本分を注ぎ込む、氷の弾ける音がした。 机の抽出しを開けると、そこには、何時も言葉だけでは伝え切れない話を聞かせてくれる、そして、今までに一度もその期待を裏切ったことのない、既に角は取れ銘も読めなくなった竹製のペーパーナイフがある、・・・。CDを一枚抜き取る、運が良い、取って置きのビバルディだ!・・・そして、全ての準備は整う、・・・。 最初の一口が咽喉を過ぎ胃に収まるのを待って、手紙の封を切った。紙の破ける音と共に、封筒からは一枚の便箋と懐かしい匂いが零れ出て来た。 二口目が咽喉を駈け降りて行った。 短い文章だった。しかし、それで充分だった。 舞台はでき上がった。旗揚げの日も決まった。気の遠くなるような長い時間だった。後は、役者が揃うのことを期待しながらその日を待つだけになった。 手紙は、灰皿の中で勢い良く燃え上がった。 -Mar/29/1998-
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