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[小説 時] [117 抽象]

117 抽象

 課長、これを、お願いしたいんですが、・・・。
 何、これ?
 退職願です。
 そんなことは見れば分かる。そうじゃなくて、辞める理由だよ。
 その中に書いておきました。
 そうか。・・・この件は後にしよう。
 遅れれば遅れる程後悔することになります。
 誰が?・・・まあ、それはとにかく、簡単に済むような話じゃないんだろうから、後でゆっくり聞かせて貰うよ。受け取るかどうかはそれからだ。約束があってこれからすぐ出掛けるんでね、・・・帰ってから話を聞こう。待てるな?・・・それまで良く考えて、気が変わったら何時でもそう言ってくれ。

 課長の印が押されさえすれば、それで全てが済む筈だった。だが、済まなかった。  確かに、何気なく済んでしまうと考えていた訳ではなかった。しかし、もう後へ戻ることはできない、向きを変える時間もない、その心算もない、・・・長い間自分の内側に巣喰っていたこれらの字句は、長い時を耐えながら乗り越えて来た、それが課長の機嫌の善し悪しによって変更されてしまうことは有り得ない、・・・。

 それは僅かな文章だったが、何度も書き直した結果だった。書き直した便箋の枚数よりも、一枚だけ少ない便箋が反故になった。そして、頭の中の抽象は紙の上で具象となり、具象は自信となり、自信は確信となる、・・・そうした自己暗示に似た確信は、それに従順でありさえすれば、それまでに一度も期待を裏切るようなことはなかったし、今この一通が必要としている手続き上の問題でさえその例外では有り得ない、・・・と考えていた。

 只、待たなければならないことを恐れていた。辞めることすらも容易ではないと云う現実に不安だった。・・・人は何故意味のないことに拘泥しようとするのだろうか、・・・。そう、嘗つて自分も待ったことがある、だが、もうこれからは待つことはない、・・・それが掌に残った唯一の慰めなのだから、・・・。

 課長が戻ったのは陽が落ちてからのことだった。敢えて面倒な仕事を抱え込むことはないと云うことだったのだろう、上着を脱ぎ席に着くなり伝言に目を通しながら受話器を取った。だが、課長の意図がどんなものであったとしても、待つ心算はなかった。

-Apr/5/1998-

・・・つづく・・・



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