本能寺・妙覚寺襲撃の謎 その1
<中枢部分が丹波亀山城に軍勢を集合させ、 |
惟任日向守(明智光秀)の軍勢が丹波亀山城に集結。 この時点、中枢部分の信長殺害の決意はまだ彼らの心の中にしか存在していない。 中枢部分が軍勢を東へ向けて進発させた瞬間、彼らはその意志を顕わにしたといえる。「信長公記」にあるように中国方面へ向かうなら「三草越え(兵庫県加東郡社町三草)」をするのが常織でした (『ノート』 77ページ) 。 この時点、中枢を構成していたのが誰であったかを特定するのは不可能。 事後的に確実に特定できる人物は斎藤内蔵助と彼の息子、小姓一人、そして三宅弥平次と幌の衆二人(「本城惣右衛門自筆覚書」)。 また明智光秀であってもかまわない。 「二条御所襲撃の過程」までのポイントを一通りオサライしたとき初めて帰納的に検討できると思います。 もちろん"惟任日向守がこの中枢部分の核であったかどうか?"が最大の関心事になります。
本城惣右衛門自筆覚書
「本城惣右衛門自筆覚書」によって確認できること。弘文荘「待賈古書目十三号」(1939年)より
それは沓掛(右の道は山崎へ、左の道は京への分岐点)に至る過程、つまり丹波亀山城→野条→老ノ坂→(沓掛)のどこかで中枢部分が「京へ向かう」と号令をかけたということ(「亀山から本能寺へ」参照)。 通説のように沓掛で休憩を取り再出発するとき、"京へ向かう"と号令をかけたのかもしれません。 この号令を聞いて(あるいは伝え聞いて)本城は「山崎のかたへとこころざし候えば、思いの他京へと申し候」と書き残しています (『ノート』 8ページ) 。
「信長公記」には「老の山へ上り、山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ」とあります。
(H9.10.19)
|