本能寺・妙覚寺襲撃の謎 あとがき
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『覚え書きノート』(1991~1993年)に盛り込んだ重要論点は次のことでした。
- 本能寺へ切り込んでいったある雑兵が後年、その襲撃状況を記した貴重な文書が存在すること(「本城惣右衛門覚書」)。
- 本能寺の正確な位置を記す文書があること(「本能寺文書」)。
この文書は活字で読むことが出来るにもかかわらず、引用されているのを見たことがありません。
「本能寺」の正確な位置を掴むことはそんなにどうでもいいことなのでしょうか?
「本能寺文書」(「日蓮宗宗学全書卷之二十」(昭和35年刊)所収、国会図書館請求番号:188.9-N8622-R)。
- 本能寺の東側には西洞院川(にしのとういんがわ)が流れ、西側には名称不明の小さな川が流れていること。
そして西洞院通りが京都盆地全体にに対して谷地形になっていること。
西洞院川は古くより"山城の谷川"として著名であったこと。
追記ながら上杉屏風に描かれる本能寺境内に見える坊さんは日承上人であろうこと。
- 本能寺へ切り込んでいった雑兵たちはその撃つ相手が徳川家康だと思い込んでいたこと。
- 桂川をわたり終えたとき、その指導部分は"上様(信長)の命令によりこれより三河の家康様を撃つ"と号令したと推定されること。
- 長宗我部元親の内室は斎藤内蔵助の妹ではなく、石谷兵部大輔の娘であること。
- 斎藤内蔵助利三に影のように付き随う柴田源左衛門勝全(かつまた)という武将がおり、その彼に嫁いだのが内蔵助の長女。
この女性は23歳の若さで死亡。
後妻として嫁してきたのがこれまた内蔵助の次女(寿院)。
長女には娘があり、この娘は堀式部少輔直之(のち江戸町奉行、寺社奉行)に嫁す。
次女にも娘(盛徳院)があり、この娘は秋山正重(のち大目付)に嫁す。
つまり、徳川家光の身辺には斎藤内蔵助の子孫・縁者というべき人々が少なからず存在し、内蔵助の三女である福(春日局)を中核として斎藤氏、稲葉氏、蜷川氏、堀田氏、堀氏、秋山氏その他の諸氏が重要な部署を占めたことを示唆する。
斎藤福(春日局)は幕府内において決して"点"的存在ではなかった。こうした姻戚関係を考える上で柴田源左衛門勝全の媒介的役割は非常に大きい。
- 「本能寺の変」勃発の本質は「丹波武士団による検地反対一揆」と捉えるのが妥当であり穏当であること。
社会史学的観点からすればきわめて初歩的・古典的・オーソドックスな捉え方であるとさえ言える(と思う)。
この10年余り、以上のことを判って欲しいと願ってきました。
パソコン通信、インターネットを通じて『ノート』を配布したものの、どうも文章が読みにくかったため通読できなかったか、一瞥されたとしても本気にしてもらえなかったように思えます。
けれども、この1年半の間に
桐野作人氏「真説 本能寺」(学研M文庫、2001年3月)
藤田達生氏「本能寺の変の群像」(雄山閣、2001年3月)
阿部龍太郎氏他「真説 本能寺の変」(集英社、2002年6月)
学研歴史群像シリーズ「明智光秀」(2002年8月)
といった内容豊富な本が刊行され、上記8つの論点のうち
<1.> 「本城惣右衛門覚書」という貴重な文書が存在していること。
<4.> 本能寺へ突入していった雑兵たちは自分たちが撃つ相手を家康と思い込んでいたこと。
<6.> 長宗我部元親の内室は斎藤内蔵助の妹ではなく、石谷兵部大輔光政の娘であること。
の3点に関しては論及されるようになりました。
私は上記の4冊の本を読み、自分が考えていたことは決して妄想ではなかったのだと、自己納得しております。
『覚え書きノート』は国会図書館と都立中央図書館に納本してあります。
閲覧していただければ幸です(国会図書館および都立中央図書館のホームページで検索できます)。
国会図書館請求番号 :GB341-E70
都立中央図書館請求番号:210.48/5030/1993
以上、いろいろ不備な点の多い作文ですが、1ヶ所でも参考になるところがあれば幸です。
(H14.8.25)
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