本能寺周辺図 当時の街路 図は平安京の条坊の規則に従いました。 但し、現在の市街と重ねるため、一部ずれているところがあります。 (例えば、押小路と三条坊門小路の間など) 大路・小路に囲まれた四角い部分を「町」と呼び、基本的には、辺が40丈(約120m)です。 距離は、1丈=3mとして計算しました。 ただ、平安京建都当時と戦国期とでは違いがあると思われますので、参考程度に留めていただければ良いのではないかと思います。 当時の街の様子 【洛中洛外 環境文化の中世史】(高橋康夫著/イメージ・リーディング叢書/平凡社刊)の「戦国期京都都市図」に、構(かまえ)の堀と土塀・櫓・木戸門の位置が示されており、これが、上杉本「洛中洛外図」に見える本能寺付近の土塀・櫓・木戸の位置と、ほぼ合致していましたので、これを図に加えました。 更に、上杉本「洛中洛外図は、【永徳と障屏画 桃山の絵画・工芸2】(辻惟雄他編/日本美術全集第15巻/講談社刊)、【洛中洛外図】(日本の美術第121号/至文堂刊)などの図を参考にさせていただきました。 丹波口・粟田口 現在の七条千本(七条新千本よりも少し東)よりも少し北寄りの辺りが、京の七口の一つ「丹波口」になります。(京の南西部、図の左下) JR山陰本線(嵯峨野線)に丹波口という駅があります。五条千本の交差点付近ですが、当時の丹波口はもっと南だったようです。(根拠となる資料が見付かりません、スミマセン) 【信長公記】に、 六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川を打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。 とあり、丹波を発った明智勢は、丹波街道を東に向かい、桂川を越えて、この口から京に入ったと考えられます。 一方、信長の上洛時の様子は、【兼見卿記】に、 廿九日、丙戌、信長御上洛爲御迎、召具侍從(兼見息兼治)至山科罷出、雨降、未刻御入洛、御迎衆各可罷歸之由先ニ御案内之間、則急罷歸畢、【兼見卿記(別本)】 廿九日、丙戌、信長御上洛爲御迎、至山科罷出、數刻相待、自午刻雨降、申刻御上洛、御迎各無用之由、先へ御乱(森長定、乱丸)案内候(之カ)間、急罷歸了、【兼見卿記(正本)】 とあり、安土から西に向かい、山科から粟田口を経て京に入ったと考えられます。 ちなみに、【兼見卿記】の著者吉田兼見は、吉田神社(図右上)の神主でした。 本能寺 旧本能寺 当寺敷地、六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西方四町々事、【本能寺文書(六郎書状 弘治三年歟)】 本能寺 下京六角与四条坊門、油小路西洞院中間方四町々事、雖レ為二沢村千松私領一相二副本証文数通一売渡候分明也、【本能寺文書(永禄十年九月四日)】 後本能寺 在二三條京極一日隆上人之開基而日蓮宗二十一箇寺之随一也始在二三條坊門西洞院一織田信長公寓二斯寺一爲二明智光秀一被レ弑時一旦爲二焦土一其後移二今處一堂前有二信長公之塔一有二寺産四十石餘一 【雍州府志】 在二三條柳水町一中古日藥宗本能寺在二斯處一繊田信長公有レ事之地也爾後本能寺移二京極二條南一 【雍州府志】 妙覚寺・二条御所他 信忠が投宿していた「妙覚寺」は、「二条以南、三条坊門(御池通り)以北、室町以西、新町以東」 信忠が避難した「二条御所」は、「押小路以南、(御池通り)以北、烏丸以西、室町以東」 明智の手の者が邸の屋根に上り弓・鉄砲を撃ちかけたという「近衛前久邸」は、「二条の北 『増補筒井家記』」 謝辞 参考にさせていただきました。著者・編者・出版社及び関係者の方々に厚くお礼を申し上げます。
本能寺周辺図