総合目次のページ [本能寺の変]に関する資料集です 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です
[資料 本能寺の変][史料にみる本能寺の変][本能寺の変その後]


山崎の戦い、その後

十六日、癸酉(壬寅)、三七郎殿其外諸勢至安土下向云々、數万騎不知數之由申訖、向州頸・筒(胴)体、於本應寺曝之云々、[兼見卿記(正本)]

十七(×六)日、
日向守内齋藤(内脱)藏助(利三)、今度謀叛随一也、堅カタ田ニ{空-工+牛、(牢)} 籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条川原ニテ被誅了、[言経卿記一]

齋藤内蔵介十七日ニ車さた也、即首ヲ被切候也、[宗及茶湯日記他會記]

十八日、乙亥(甲辰)、生捕齋藤内藏助上洛、令乘車渡洛中、於六条川原刎首、日向守同前曝之、於片田(堅田)伊加伊(猪飼)半左衞門搦取云々、[兼見卿記(正本)]

廿三日、庚辰(己酉)、日向守・齋藤内藏助・築頸塚粟田口之東■■(路次カ)之北云々、自廿二日築之云々、奉行{鏨-斬+秋}原・村井清三、[兼見卿記(正本)]

廿九日、乙卯、向州之家中衆弥平次(明智秀滿)親、在城丹州横山(天田郡福知山城)、今度生捕上洛云々、[兼見卿記(正本)]

(七月)二日、戊午、天晴、
一、粟田口ニ去  (マヽ)日ニ、明智日向守(光秀)首・ムクロ{犬-大+(寸-丶+(冫-丶))、(等)} 相續、張付ニ懸了、齋藤(内脱)藏助(利三)同前也、其外首三千余、同所ニ首塚ヲ被築了、今日又明智弥兵次(秀滿)父(三宅出雲)六十三才、召取、生張付ニ同所ニ被懸了、[言経卿記一]

安土・坂本

十五日、壬申(辛丑)、安土放火云々、自山下類火云々、(中略)侍從(兼和息兼治)云、向州事秘(必カ)定也、於路次見之由申訖、坂本之城、天主放火云々、高山次右衞門付火切腹云々、[兼見卿記(正本)]

安土山においては、津の国において起った敗亡が聞えて、明智が同所に置いた守将(明智光春)は勇気を失ひ、急遽坂本に退いたが、あまり急いだため、安土には火を掛けなかった。(中略)附近にゐた信長の一子がいかなる理由によるか明でなく、智力の足らざるためであらうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、ついで市にもまた火をつけることを命じた。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日(六月十四日)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたこと を見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

吉田兼和

十四日、庚子、昨夜向州退散勝龍寺云々、未聞落所、津田越前入道來云、今度日向守當所へ來、禁裏其外五山へ銀子配分之儀、今度於御陣所執々其沙汰、曲事之旨也、有樣慥可申入之由、織田三七郎御使云々、即請宅、以直面一々申理了、不承伏氣色也、皈京了、則參禁裏、右之旨申入之處、親王御方(誠仁親王)御對面、具猶申入了、三七郎方へ早々被遣御使可被下之由申入候(之カ)處、被成御意得之旨仰也、後刻爲柳原亞相(淳光)御使陣所へ下向了、令退出、向徳雲軒(施藥院全宗)、此義相談候(之カ)処、不苦儀也、羽柴筑前守聊不可有存分、早速可申理、今日三井寺陣所也、明日者早天江州へ手遺也、先{鏨-斬+秋}原(桑原貞也)方へ可申遣之由徳(施藥院全宗)云、最(尤)也、菟角存分次第任之由申訖、徳使者・予使者左馬允(鈴鹿定繼)、兩人{鏨-斬+秋}原方へ申遣了、{鏨-斬+秋}原返事云、此義更不苦義也、最前之御使越前入道(津田)者、不可有三七殿之義、可爲私之存分也、惣別如此不届仕合、京中方々度々儀也、連々拘置武衞(織田信孝)之門、武衞へ可申遣之由、{鏨-斬+秋}原存分、直武衞へ遺使者之処、且以無御存知、然者被召寄越前入道可被相尋之由使者申候(之カ)処、今朝令他行、于今不歸宅之由返事也、{鏨-斬+秋}原如推量、越前私之義也、重而若申來者、留置其人可注進之由、{鏨-斬+秋}原存分之由申訖、先以安堵了、次禁裏之御使柳原(淳光)皈、御返事云、此義三七郎且以不申付、曲事也、所詮搦捕其者可有注進之由、堅固之存分也、對予折帋到來、見于左、

津田越前對其方難題申懸之由候、抑我等不申付事、何之輩申懸候哉、不審候、所詮其者搦捕、其者可被上候、若及異儀(脱アルカ)可申付、恐々謹言、
 六月十四日 三七 信(織田三七郎信孝)
  吉田神主(兼和)殿

忝之旨申入退出、皈在所各申聞、安堵了、[兼見卿記(正本)]

廿二日、己卯(戊申)、宮内卿法印(松井有閑)上洛之時、罷向面會、帷越後一、持參、連々信長ヘ奏者、今度當方馳走也、仕合祝着、随而日向守此方へ來銀子配分之事、一々申理了、
三七郎殿諸勢濃州へ下向云々、本陣へ差下左馬允、御朱印之次(繼)目三七殿へ申入、■(又カ)先度銀子配分之樣、各々以条書、奥以誓言申入了、可相談水無瀬兵衞督之由申合、[兼見卿記(正本)]

村井清三申觸云、向州預物・近衞(前久、龍山)殿御物等、令糺明可出之由□以雜色相觸了、向徳雲軒、帷木布一、持參、最前早□(速カ)馳走之儀也、弥羽筑(羽柴秀吉)取合憑入之由相談了、別而入■■(魂也カ)、[兼見卿記(正本廿三日条)]

近衞前久

廿日、丁丑(丙午)、近衞相國(前久、號龍山)、自三七殿可有御成敗之旨依洛中相觸、御方御所(近衞信基)御身上御氣遺御迷惑也、出京之刻、流布之間祗候了、内府(信基)御身上聊無別義之由、{鏨-斬+秋}原・長谷川宗仁祗候了、[兼見卿記(正本)]




参考資料

総合目次のページ [本能寺の変]に関する資料集です 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です