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天皇、天皇制を支持する勢力、又はそれによって生きている階層、混乱を回避したい人々、外国を恐れる人々、権威の信奉者、そしてドラステックな変革を好まない(または理解できない)人々、最後に和をもって尊しとした文化。
これらが、彼を追いつめたと、思っております。
しかし、本能寺の変自体は、偶然でした。
彼が少しでも警戒してたら、防げたでしょう。
それどころか、光秀に変自体を思いとどまらせることも十分可能だったと思います。
そうすると、この日本は、全く違う国になっていたでしょう。
国王信長による絶対王政国家、そして、帝国主義と植民地獲得。
そして資本の蓄積が、ブルジョアと産業革命を日本に起こしていたかも。
歴史は、「偶然」か「必然」か
という質問をお寄せいただいております。
作者には手に余る質問で、読者の方々のご意見やご感想をお伺いできれば幸いです。
即ち、歴史ifものでよく論ぜられるテーマ(ex.本能寺の変が起こらなかったらとか、信玄もう少し生き延びたら天下を取れたかとか)は、百歩譲って事実を若干曲げたとて、何らかの形で起こり得た事象(もしくは実現不可能な事象)だと思えるからです。
例に沿って考えると、惟任日向守の謀叛がなかったとしても、nakaさんの論ずる通り、時代が信長を殺した部分があることについては、私も異論ありません。
彼は現在我々の知る日本史に於いて、必要不可欠な存在ですが、一方でその時代に於いてはかなり急進的な存在であり、ある意味で時代が彼を許容出来なかった部分があるのではないかと思うのです。
もし、光秀が彼を討たなくとも、代わりには事欠かないでしょう。
例えば、長岡兵部卿等は宮中との関係、足利家との関係等を考えた場合、光秀自身より適任者ではないでしょうか(最近は、彼が黒幕の一人でもおかしくないとも思っているのですが・・・)。この例の場合には、信長の革命性が彼を必然的に殺させたという意味に於いて、必然であると考えられます。
さて、例の2つ目についてはどうでしょうか。この場合、武田の軍事力(制度)を含めた国力の問題を考える必要があります。
一般に、あと信玄が10年生きていたら・・・という想定が多いように思いますが、私はこの場合も、多少武田が延命出来たにすぎないと思っています。
即ち本質的に武田軍は織田軍と違い、兵農未分離で従軍期間に限りがあったこと。又、武田の領国の甲信は、生産性が低く(=国力が低く)基本的に兵農分離が出来なかったこと。鉄砲を装備出来たとしても、当時100%輸入に頼っていた硝石を輸入するための国際貿易港を領有しておらず、近代的軍事力を運用することが出来なかったこと等、彼が多少生き長らえたとて、天下に号令出来なかった理由には枚挙にいとまがありません。
たしかに、中には偶然の産物もあったとは思いますが、大きな流れの中では、やはり必然に支配されていたのではないでしょうか(尤もこんな議論を、n=2で立証しようというのは乱暴かもしれませんが)。
順逆二門無し
大同心源に徹す
五十五年の夢覚め来たりて
一元に帰す
の意味が知りたいのですが、ご存知の方教えて下さい!
逆順無二門
大道徹心源
五十五年夢
覚来帰一元
明窓玄智禅定門
という辞世の偈(げ)を読み下したものと思われますが、あいにく、読解力がなくお答えできません。現在、調査中ですが、読者の方のご協力をいただければ幸いです。
逆順無二門
大道徹心源
五十五年夢
覚来帰一元
かつては朝廷に仕えていると考えた信長と共に、天下平定の為に戦を重ねる事と、
今では朝廷を抹殺しようと企てる信長を殺害した事は
いずれも朝廷を頂とする国体護持のためであって、同じ心を源とするものなですよ。
五十五年の夢から覚め、ここに死を覚悟する。
(帰一元=五元[地水火風空]の空に帰る、死ぬ)
後の世の人々に信長暗殺の真意分かるかな、分からねーだろうなあ?
yuji nishio さん の訪れた光秀ゆかりの地 May/13/2001
小栗栖は3回行きました。
土民ということでしたが織田勢の一派と聞いています。
西教寺が湖西にありますが、ここが明智家の菩提寺となっています。
腰をくねらせた石造が印象的です。
光秀の首塚は東山ユ−スホステルの近くにあります。
さらし首のあと、この地に葬られたのでしょう。
老の坂を越えた時、畑にいた農民を通報の恐れがあると切り捨てたということです。
本能寺の中も中にはいり一人二人ときりこんできたと聞いております。
歴史を変えた男として日本史から永遠にその名を残すことでしょう。

光秀の謀反は後生まだ語りつがれていますが、歴史を変えた変でもあり、謀反に走るのはいかがなものか、現代にも警告としていきているようです。
武力で思いを走らせたのでしょうか?
一族もろとも不幸な結果におわりました。
紹巴の歌を素直に聞く余裕はなかったようです。
老いの坂から目撃した農民は遠慮なく切り捨てられたとか。
本能寺内は一人二人と刀を振りかざす程度とも記述されています。
nozhwe kako さん のご意見 Sep/23/1999
弘治二(1556)年四月、美濃領主の斎藤道三は、後継問題で子義龍に攻撃され討ち死にしました。これを知った道三の家臣である明智光安は、長山城(可児郡、明智城)に籠りますが(注1)、圧倒的な兵力に抵抗するすべもなく、討ち死にします。
この時、道三は娘婿である尾張の織田信長に援軍を要請しています。
しかし結果的に、信長は道三も長山城も見殺しにした形になりました。
ここが案外ポイントなのではと思います。
更に、信長の母方の親戚である土田氏は可児に所領があり、長山城の合戦の際に討ち死にした土田氏の当主の弟の未亡人が生駒殿と呼ばれ、信忠信雄を生んでいる人です。その土田氏はこの時の信長の態度に腹を立て、離れてしまいました(前野文書)。
これも何か因縁めいています。
また、長山城は金山城(森氏、兼山町)と非常に近く、現に金山城には二の丸に長山城を監視する櫓跡があります。蘭丸と光秀の確執はそこからきているのかなと思います。
明智氏は土岐氏の傍流ですが、一族は遠山氏(注2)・妻木氏・小里氏(注3)と同族関係にあります。
東濃の岩村周辺の遠山氏は、武田・織田ともに脈を通じており、そのため信長も光秀を信州方面に対して投入せずに、武田氏滅亡の際に光秀を初めて連れていったのかなとも思われます。
光秀には、コネもあり、能力もあるのに、なぜ40すぎまで織田氏に仕えなかったか。
以上のような過去の問題が、かなり尾を引いていていたんだろうと思います。
また信長も、それを意識して光秀を使っていたのですが、些細なことで遺恨に火がついたのかなと思います。
でもなぜ光秀は美濃衆を把握できなかったのか、それは不思議です。
光秀が土岐氏の一族で長山城の出身だとしたら、呼び掛ければ、美濃八千騎のうち、信長に恨みを持つ土豪が幾らかでも集まってきたでしょう。そうすれば、山崎の戦いで近江衆・丹波衆に加えて1万−2万はになったのに。
だから光秀が長山城出身というのは半信半擬です。
| 注1. | 『明智軍記』によれば、この時、光秀は、光安の説得に応じて光春や光忠らと共に城を抜け出したとされます。 |
| 注2. | 武田滅亡の際に有名な快川和尚は遠山氏の出身。 |
| 注3. | 瑞浪市に小里城跡がありますが、山頂の天守閣台(実際は建てることはなかった)は安土城の天守台と同じです。 ただ形状は根小屋方式で山頂に天守閣台以外付帯施設がありません。織田氏の頃の岐阜城はこんな形だったという参考遺跡があります。(いまの岐阜城および残る縄張り図は池田輝正のころと思われる。) |
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