総合目次のページ 「本能寺の変」に関する資料集です 家康の性格を下敷きに「関ケ原合戦」を考えてみます 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です
辞典や用語集です 絵フォントとフォントのコレクションです ソフトウェアやホームページ用の素材があります 小説です お気に入りのページへのリンク集です

夜明け前

14日甲寅(1600年10月20日)

    家康は大垣北西の赤坂に到着。
    軍議の結果、中山道を西進し、関ケ原・不破の関・近江を経て、大阪を目指すことを決める。

    三成・宇喜多秀家小西行長島津義弘隊は、東軍が西進するとの情報を得ると、関ケ原で東軍の西進を阻止するため、急遽、夜陰に乗じて南宮山南麓の牧田川沿いに、関ケ原を目指した。

15日乙卯(1600年10月21日)午前五時
    最後尾の宇喜多秀家隊が到着、西軍は中山道を見下ろす天満山南麓(関ケ原の北西)に布陣を終えた。
    既に、西軍の小早川秀秋は松尾山に、毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親は南宮山東に布陣していた。

    その頃、濃霧の中を福島正則隊を初めとする東軍の先鋒が関ケ原に到着、家康は桃配山に着陣した。

    関ケ原周辺に結集した両軍の動員数は、ほぼ拮抗しているが、東軍八万八千余が中山道に沿って東西に布陣しているのに対して、西軍は正面に三成以下の五万四千余、東軍の退路を塞ぐように南宮山に二万六千余が布陣した。

開戦

午前八時

    関ケ原を覆っていた霧が引き始める。

    井伊直政宇喜多秀家隊に発砲、東軍先鋒の福島正則は、遅れまいと、宇喜多秀家隊に対し一斉射撃を浴びせながら突撃する。

午前九時
    三成・島勝猛・蒲生郷舎隊と黒田長政細川忠興加藤嘉明・金森長近隊が交戦。

    宇喜多秀家隊に福島正則・松平忠吉隊が攻撃を始める。
    松平忠吉隊は、後、島津義弘・豊久隊に当たるため北転。

    古田重勝・織田有楽隊は小西行長隊を攻撃。

    大谷吉継隊に藤堂高虎・京極高知隊が攻撃を始める。寺沢広高隊がこれに続く。
    大谷吉継隊は、小早川秀秋の後背に備えて兵の一部を割いていた。

    福島正則隊に寺沢広高隊が加わり、宇喜多秀家隊と激戦を続けている。

    家康は、近習を率いて本多忠勝隊付近に前進。

午前十時
    三成、島津義弘に応援を要請するが、拒絶される。

    西軍、松尾山の小早川秀秋隊、南宮山の毛利秀元隊らに参戦を促すための狼煙を上げるが、いずれもこれに応ぜず。

午前十一時
    家康は、一進一退の戦況に苛立ち、桃配山から陣場野に本陣を移す。

    島津義弘隊は、松平忠吉・井伊直政隊の攻撃に対して反撃する。

    大谷吉継隊は、藤堂高虎・京極高知隊を追い藤川を越える。

大勢決す

正午

    家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加える。
    去就に迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降りる。

    小早川秀秋隊は、大谷吉継隊右翼を攻撃する。

    大谷吉継は、予め小早川秀秋の後背に備えていたため、一時は小早川秀秋隊を押し戻すが、この動きを見て、寝返った赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治隊の攻撃を受け、大谷吉継隊は後退。
    戸田重政・平塚為広は討ち死に、大谷吉継も自刃する。

午後一時
    大谷吉継隊が全滅したとの報を受け、宇喜多秀家小西行長隊は、総崩れとなり伊吹山方面へ敗走する。

    福島正則隊は、宇喜多秀家隊の敗残兵を追撃する。

    本多忠勝隊が、三成隊を攻撃する。

    三成隊は総崩れとなり、三成は北国街道を敗走する。

午後二時
    島津義弘隊は、家康の本陣前を通り、伊勢街道を退却する。

午後三時
    南宮山東麓の安国寺恵瓊・長束正家は、毛利秀元・吉川広家に参戦を促すが、吉川広家は毛利秀元を制して動かない。

    家康、首実験を行う。

    小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱ら、家康に三成の居城佐和山城攻撃の先鋒を願い出る。


総合目次のページ 「本能寺の変」に関する資料集です 家康の性格を下敷きに「関ケ原合戦」を考えてみます 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です
辞典や用語集です 絵フォントとフォントのコレクションです ソフトウェアやホームページ用の素材があります 小説です お気に入りのページへのリンク集です