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その8 <襲撃後の中枢部分の言葉(アピール)>
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信長・信忠殺害後、明智勢中枢部分は"信長誅殺を決意した理由"を民衆に向かってアピールしました。 「武功夜話」に次のように採録されています。
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ここでは明智光秀自身が宣言したようになっています。襲撃中枢部分が発した言葉を光秀の言葉として受けとめて採録されたものかと思われます。 実際に光秀が発したものであってもよいと私は考えています。 この点については最後に締めくくりたいと思います。 ここに挙げられている信長の罪状は
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![]() 神社・仏閣
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<1.>に関して私には余り言うことがありません。 当時の社会的(民衆レベルの)生活基盤は宗教であったこと。日本であっても西洋であっても宗教を基盤として社会が動いていたこと、宗教の時代であったことを再確認すればよいと思います。 研究者が利用する一次史料は"はっ"と気が付いてみるとほとんどが宗教・神社仏閣がらみのものでしょう。
<2.>について。 私はこれに注目しました。 ● みだりに諸国を奪い取り (『訂正・加筆』 76ページ)
「武功夜話」採録のこの文章を読んだとき、私は(私以外の人もそうだと思いますが)漠然と"武田氏征討、長曾我部氏征討、中国方面への侵攻"といった進行状況(押せ押せムード)をイメージしていました。
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彼らが"みだりに諸国を奪い取る"と信長を告発するとき、それは間接的には先に記したような信長による自国領土の量的拡大を指すのかもしれません。 また彼らは武田氏征討の時、一ケ月半に及ぶ出張(イクサに出かけること)をしなければならなかった。 そして追い打ちをかけるように今度は中国方面への出陣命令が下されたわけです。
「農作業に精を出さなければならないときに、いつ帰れるか判らない戦(イクサ)に再びかり出されるなんて…理不尽だ!」といった不満があったろうことが推測できます。
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![]() 信長像 遠藤周作他 「対論 たかが信長 されど信長」 (文芸春秋社、1992年6月刊)
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つまり先の彼らの告発は「城割り・検地」によって追いつめられた"抵抗の叫び"ではなかったか? と考えるのです。 実際、自分の領地を「城割り・検地」施行に曝(さら)すことになれば、それは国人として彼らが先祖代々受け継いできた「在地支配の既得権」を根こそぎ奪い取られることを意味することになります。 信長の「みだりに諸国を奪い取る」方法(武士道)は旧来のそれとは全く質を異にするものなのです。 朝尾直弘氏の表現を借りれば、
天正十年時、たしかに信長は甲斐、四国(土佐)、中国方面へと自国の領土を拡大しようとしていたし、私たちもこうした進展状況に目を奪われます。
(H9.6.3) 「城割り・検地」政策が給人(武士団)、国人にとって天変地異の出来事であったことがどうも理解してもらえないようです。そこでたとえ話を一つ。
なんでそんな突拍子もないとんでもないたとえ話をするんですか? と怪訝な思いをもたれるかもしれません。
秀吉の時代、土佐においても検地が行われた。
明治維新政府によって実施された土地改革(地租改正)を研究する場合、その(直接的)前史として織豊期の検地政策が研究対象として取り上げられる。
(H9.10.26)
信長の死は、やはり中世から近世への大きな転換点だったと思いますね。たとえば信長がやろうとした朝廷や公家の統制の問題とか、寺社勢力を統制するということがあります。そういったいわゆる中世に権力をもっていた勢力、荘園領主でもあった勢力や宗教勢力をひっくるめて、権力を取り上げてしまう。そして、いわばかたちばかりの権威の枠のなかにはめ込んでいく。実権は征夷大将軍あるいは天下人というものが握る。こういう社会へその後かわりますね。そうするとそういう大きな変わり目、どこでかわるんだろうということを煮詰めていくと、やはり信長のこの天正十年というあたりへいきます。その前と、そのあととの、両側から詰めてくると、まさにかわり目というところで本能寺の変が起きているということが言えると思うんです(角川書店「歴史誕生6」、1990年。都立中央図書館<開架>)。
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