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[資料 本能寺の変][史料にみる本能寺の変][妙覚寺の織田信忠]


信忠、二條御所に入る

三位中将信忠、此の由きかせられ、信長と御一手に御なり候はんとおぼしめされ、妙覚寺を出でさせられ候ところ、村井春長軒(貞勝)父子三人走り向かひ、三位中将信忠へ申し上け候趣、本能寺は早落去(らつきょ)仕り、御殿も焼け落ち候。定めて是れへ取り懸け申すべく候間、二条新御所(二条城)は御構へよく候。御楯籠り然るべしと申す。これに依りて直ちに二条へ御取り入り、[信長公記(桑田)]

引き取りて退かれ候へと、申し上ぐる人もあり。三位中将信忠御諚には、か様の謀叛によものがし候はじ。雑兵の手にかゝり候ては後難無念なり。爰にて、腹を切るべしと仰せられ、御神妙の御働き、哀れなり。[信長公記(桑田)]

彼がこの報告に接した時には、まだ寝床の中にいたが、急遽起き上り、宿舎にしていたその寺院(妙覚寺)は安全でなかったので、駈けつけた武士たちとともに、近くに住んでいた内裏(正親町天皇)の息子(皇子誠仁親王)の邸(二条御所)に避難した。[回想の織田信長]

世子(信忠)はこの報を聞き、まだ床に就いてゐたが起出で、滞在してゐた寺院(妙道寺、妙覚寺の誤り)は安全でないと考へ、駈けつけた人々と共に附近にあった内裏の御子の居(二條御所)に赴いた。(中略)世子はこの邸に入ったが、甚だ急いで刀のほかは携へず、同所は内裏の御子の居で婦人のほかゐなかったため、武器はなかった。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

親王ら、二條御所を出る

(二條御所での戦闘の)最中親王御方・宮・館女中被出御殿、上ノ御所へ御成、新在家之邊ヨリ、紹巴(里村)荷輿ヲ參セ、御乘輿云々、本應寺・二條御殿等放火、洛中・洛外驚騒畢、[兼見卿記(別本二日条)]
右之於二条御殿双方乱入之最中、親王御方(誠仁親王)・若宮(和仁王)御兩三人・女中各被出御殿、上之御所(禁裏)へ御成、中々不及御乘物躰也、[兼見卿記(正本二日条)]

三位中将信忠、御諚(ごじょう)には、軍(いくさ)の巷(ちまた)となるべく候間、親王様、若宮様、禁中へ御成り然るべきの由、仰せられ、心ならずも、御暇請(イトマゴイ)なされ、内裏へ入れ奉り、爰にて僉議(けんぎ)区なり。[信長公記(桑田)]

内裏の御子(誠仁親王)はかくの如き客を迎へて甚だ当惑され、都の総督村井殿Muraidono(京都所司代村井貞勝)が世子に随ってゐたので、その進言に従ひ、馬上その街に来てゐた明智のもとに使を遣はして、いかにすべきか、己もまた切腹すべきかと尋ねられた。明智は何も要求するところなく、ただ直にその邸を出で、信長の世子(信忠)が逃るることなきやう、馬に乗らずまた駕籠に乗らぬことを希望した。内裏の御子はこの報に接して婦人等と共に出で、上の都の内裏の宮殿(上御所、禁裏)に向はれた。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

(信長の)嗣子とともに都の副王(所司代)である村井(貞勝)殿がいたが、その進言に従って、内裏の息子は馬にまたがったまま、外側の街路にいた明智の許へ使者を派遺し、自分はいかになすべきか、切腹すべきかどうかを糺した。明智は、殿下(Sua Alteza)に対しては何もしようとは思っておらず、ただちに同所から出られるが良いと思う。ただし、信長の息、城介殿が逃亡することがあってはならぬから、馬や駕籠で出ることがないように、と答えた。内裏の息子はこの報告に接すると、その女たちとともに彼の父の邸に入るため上京に向かった。[回想の織田信長]

二條御所での戦闘

同三位中將陣所妙見(覺)寺ヘ取懸、三位中將二条之御殿(誠仁)親王御方御座也、此御所ヘ引入、即以諸勢押入、三位中將生害、村井親子三人(貞勝・清次・貞成)、諸馬廻等數輩、討死不知數、[兼見卿記(別本二日条)]
三位中將爲妙覺寺陣所、依此事而収入二条之御殿(下御所)、即諸勢取懸、及數刻責戰、果而三位中將生害、此時御殿悉放火、信長父子・馬廻數輩・村井親子三人(貞勝・清次・貞成)討死、其外不知數、[兼見卿記(正本二日条)]

明智治右衛門以下ハ、二条ノ要害、同ク妙覚寺并京都ノ所司代村井長門入道長春ガ堀川ノ館ナドヲ遠巻シテ、尺地ヲ余サズ取包、本能寺ヲ隔(ヘダチ)シガ、信長公ヲ討亡シ凱歌(カチドキ){口+童(ドツ)}ト挙ケレバ、所々ノ敵共是ヲ聞テ、偖ハ我身ノ上ニ迫リヌルヨト思シカバ、信長公ノ四男織田源三郎勝長・其叔父津田又十郎長利・村井春長軒并勝竜寺城代猪子兵助等ハ、秋田城介信忠卿ノ御座(ヲハシマ)ス二条城へ馳入、四方ヲ払テゾ籠リケル。[明智軍記]

明智左馬助妙覺寺襲。[佐久間軍記]

御敵、近衛殿御殿へあがり、御構へを見下し、弓鉄炮を以て打ち入り、手負死人余多出来。次第/\に無人になり、既に御構へに乗り入れ、火を懸け候。三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴/\、宗従の家子郎等、甍(いらか)を並べて討死。[信長公記(桑田)]

世子(信忠)はよく戦ひ、弾創、矢傷を多く受け、明智の兵は遂に勝ち、邸内に入って火を放ち、多数の人は焼死した。世子もまた焼死者の中にあった。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

(二条御所の)内部にいたのは、選抜された重立った武将たちであったので、実によく奮闘し、一時間以上にわたって戦ったが、外部の敵は多く、よく武装されていた上に、大量の鉄砲を具備していたので、内部からの低抗は困難をきわめた。その間、嗣子(信忠)は非常に勇敢に戦い、銃弾や矢を受げて多く傷ついた。かくて明智の軍勢はついに内部に侵入し、火を放ったので、多数の者が生きながら焼き殺された。その中に混じり、信長の世継ぎの息子は、他の武士たちとともに不幸な運命のもとに生涯を終えた。[回想の織田信長]




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