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[資料 本能寺の変][史料にみる本能寺の変][山崎の戦い]


中国大返し

(秀吉は)信長の死を聞くや、毛利がこれを聞く前に己に有利な平和を彼と結んだ。而る後殿達は急いでその城に帰り、羽柴殿自らも明智と戦争をする準備をした。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

毛利の諸国の征服者である羽柴の陣営では、敵方に先立って信長の死を知ると、すでに彼らを大いなる窮地に追いこんではいたが、羽柴は有利な立場で彼らと和を講じた。そしてただちに殿たちは、急遽、自身の居城に帰還し始め、当の羽柴も明智と一戦を交えに行く準傭を完了した。[回想の織田信長]

山崎迄十二日ニ着陣、即、我等モ爲見廻參、堀久大郎殿路次ヲ令同道候、即十二日ニ筑州ハ富田ニ御在陣也、[宗及茶湯日記他會記(六月十二日条)]

同(六月)五日秀吉直家(宇喜多)拂陳。一月一夜經廿七里打入姫路。輕可息人馬處。光秀語織田七兵衡信澄手合河州旨。八日酉ノ刻聞姫路。信孝於生害可爲武勇瑕瑾。九日出姫路。十一日至攝州富田。[豊臣記]

明智軍、山崎に陣取る

十二日、戊戌、在所之構普請、白川・浄土寺・聖護院人足合力也、
日向守敵歟、自山崎令出勢、於勝龍寺西足軽出合、在(有)鉄放軍、此近邊放火[兼見卿記(別本)]
十二日、戊戌、在所之構、南之外堀普請、白川・浄土寺・聖護院三卿(郷)之人足合力也、自攝州山崎表へ出足軽、勝龍寺之西ノ在所放火、此義ニ近可(所カ)衆驚、止普請各皈在所、[兼見卿記(正本)]

光秀公筒井御待被成。洞か峠に御座候處。大坂より七兵衞殿切腹被成候。又秀吉公は備中より御上り被成候。早兵庫迄御着之由之注進。被聞召候に付。其儘洞が峠御引取被成候て。狐川を渡り。山崎表へ御人數御集被成。先手は山崎へ被押向。御籏本は隠坊塚に御人數御立被成候由之事。[細川忠興軍功記]

一番ノ中備ハ、明智十郎左衛門光近・柴田源左衛門・奥田宮内・同市助・斉藤内蔵助・溝尾庄兵衛・後藤喜三郎・磯野弾正・阿閉淡路守・多賀新左衛門・鳥山主殿助・久徳六左衛門、其勢五干騎、左ノ先手ハ、村上和泉守清国・山本対馬入道山入・津田与三郎・進士作左衛門・伊勢安房守・上野筑後守・杉原讃岐守・伊藤志摩守・庄田権之助・松本主膳、其勢二千七百余騎、右備ハ、藤田伝五行政・向藤三・伊勢与三郎・諏訪飛騨守・御牧三左衛門・舎弟勘兵衛・詑美隠岐守・桜井新五左衛門・逸見木工允・香川刑部、其勢二千、又山ノ手へ向ケルハ、並河掃部易家(ヤスイヱ)・同息八助・松田太郎左衛門・妻木忠左衛門・荻野彦兵衛・波々伯部権ノ頭・加治石見守・酒井孫左衛門・和田木工助、其勢三千余騎、光秀ガ旗本ハ、中沢豊後守知綱(トモツナ)・三宅孫十郎・比田帯刀・村越三十郎・開田太郎八・堀口三ノ丞・同三太夫・隠岐内善ヲ先トシテ、其勢五千、総人数合テ壱万八千二百余騎也。[明智軍記]

山崎の戦い

十三日、己亥、雨降、申刻至山崎表鐵放之音數刻不止、及一戰歟、[兼見卿記(正本)]

播州より羽柴攝州有岡城入城アリテ、ソレヨリ三七郎殿一味ニ、山崎表へ打上リ、日向方ノ衆、十三日ニ山崎ニテ及一戰。日向守キリマケ、敗軍シテ一万計討死。日向守ハ山科ニテ一揆ノ手へ討捕之。[宇野主水日記]

明智の兵は甚だ急いで逃亡し、(中略)その途中に明智が占領してゐた城(勝竜寺城)も安全でないと考へ、午後二時当地(都)を通過した。彼等は急走するに槍も銃も荷物となるので、悉く道に棄てて走った。我等は住院よりその逃亡するを見たが、通過するに二時間余を要した。多数は都に入らんことを欲したが、市民はその市内に入ることを防ぐため門を閉ぢた。よって彼等は明智の主城坂本に向ったが、村々の盗賊その他各所の人々が出て、彼等の馬及び剣を奪はんためこれを殺したので、坂本に着くことができなかった者が多数であった。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

明智軍敗退

果而自五條口落武者數輩敗北之体也、白川一条(乘)寺邊へ落行躰也、自路次一揆出合、或者討捕、或者剥取云々、自京都知來、於山崎表及合戰、日向守令敗軍、取入勝龍寺云々、討死等數輩不知數云々、天罰眼前之由流布了、落人至此表不來一人、堅指門數(マヽ)戸、於門内用心訖、今度南方之諸勢、織田三七郎・羽柴筑前守・池田紀伊守(恒興)・丹羽五郎左衞門(長秀)・蜂屋(頼隆)・堀久太郎(秀政)・矢椰善七(家定)・瀬兵衞尉(中川清秀)・多羅尾、二万余取卷勝龍寺云々、然間、南方衆此表へ不來一人也、[兼見卿記(正本十三日条)]

大将日向守ハ、猶是迄モ本陣牀机(ショウギ)ノ上ニ坐シケルガ、今ハ某(ソレガシ)一戦シテ万卒ノ報恩ニ尸(カバネ)ヲ曝スベシトテ、馬挽寄(ヒキヨセ)乗ントシケルヲ、比田帯刀申ケルハ、此戦場ニシテ御命ヲ失セ給ハン儀、末代迄モ知慮ノ様ニ相聞候ハン事口惜覚候間、先々勝竜寺ノ城ニ引入玉ヒ、其上ニテ、如何様ニモ御存分ニ任セラルベキニテモヤ候ラント申ケル処ニ、進士作左左衛門貞連(サタツラ)・溝尾庄兵衛茂朝(シゲトモ)等太刀打折、甲ノ前立モ切落サレタル体ニテ馳参シ、帯刀同前ニ諫言申ニ付、其儀ナラバ免モ角モ各計(ハカラウ)ベシトテ、比田ヲ先打ニテ、漸ク七百余騎ヲ相具(アイグ)シテ、其日ノ暮程ニ勝竜寺ニゾ籠リケル。[明智軍記]

都から敗戦の地(山崎)まで四レグワあったが、その途中に明智が占領してゐた城(勝竜寺城)も安全でないと考へ、午後二時当地(都)を通過した。彼等は急走するに槍も銃も荷物となるので、悉く道に棄てて走った。我等は住院よりその逃亡するを見たが、通過するに二時間余を要した。多数は都に入らんことを欲したが、市民はその市内に入ることを防ぐため門を閉ぢた。よって彼等は明智の主城坂本に向ったが、村々の盗賊その他各所の人々が出て、彼等の馬及び剣を奪はんためこれを殺したので、坂本に着くことができなかった者が多数であった。
(中略)
明智(光秀)は同日午後一部の兵と一緒に前に占領した勝竜寺の城に入った。その後全軍が追撃して来り、都までも聞えた程終夜銃を放ち、また城の周囲の家屋に火を放って警戒してゐた。(中略)天明に至って城は降伏した。明智は城内にゐては安全でないと考へ、宵の口に主城坂本に向って逃げた。彼はほとんど単身で、世人の言ふところによれば少しく負傷してゐたが、坂本には到着せず、聖母の祝日にはどこか知れぬところに隠れてゐた。(中略)隣むべき明智は隠れてゐて、坂本の城に連れ行かんことを農夫等に請ひ、黄金の棒を多く与ふることを約したが、彼等は刀と黄金を奪はんと欲し、槍で刺して彼を殺し、首を斬った。[イエズス会日本年報(1582年追加)]

聞くところによれば、同日の午後、明智は戦場から約二レーグアほどのところにある勝龍寺城に閉じ籠っており、間もなく(明智の)全軍が彼のところへ来たが、狡滑な彼は夜は隠居していた。なぜなら彼はもはや、自分とともに内部にいる者を信用しようとしなかったからである。とはいえ、外にいた者は大いに警戒に努め、一晩中、発砲し続けていたのが都まで聞こえ、よく敵を見張るために城の周囲で盛んに火をたいた。[回想の織田信長]

哀れ明智は、隠れ歩きながら、百姓らに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。そして次の木曜日に、信長の名誉のため、明智の身体と首を、彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。[回想の織田信長]

同十三日ニ於山崎表かつせんあり、惟日まけられ、勝龍寺へ被取入候、從城中夜中ニ被出候、於路次被相果候、首十四日ニ到來、本能寺 上様御座所ニ、惣之首共三千斗かけられ候、
同六月十六日ニ我等も上洛いたし候、首共見候也、[宗及茶湯日記他會記]

夜更明智勝兵衛。進士作左衛門。村越三十郎。堀池與次郎。山本義入。三宅彌十郎随從シテ過伏見。小栗栖ニシテ當郷人鉾極運難遁落馬。各雖介錯絶入ヌ。無爲方討首投叢退散ス。五十五歳。[豊臣記]

勝竜寺ニ軍立為何(イカヽ)セント評議セシ処ニ、城代三宅藤兵衛申ケルハ、名将此小城ニ御坐(ヲハシマサ)ン事、武略ニ拙キニ候ヘバ、急キ坂本ヘ御帰城有テ、御計策候ハヾ然ベク奉存候。御跡ノ儀ハ並河八助・中沢豊後守モ、唯今山手ノ陣ヨリ遁来リ、丹波武者三百計相見候間、此勢ト引合セ、某(ソガシレ)当城ニ相怺(コラ)ヘ、敵寄来ナバ一戦ヲ遂トゲ、見苦ク無之様ニ可仕ト申ケレバ、光秀実(ゲニ)モトヤ思ヒケン。村越三十郎・堀与次郎・進士作左衛門ヲ先打トシ、溝尾庄兵衛・比田帯刀ヲ後陣トシテ其勢五百余騎、十三日ノ亥刻ニ勝竜寺ヲ出、川端ヲ上リニ、北淀ヨリ深草ヲ過ケルニ、家来共終日ノ戦ニ人馬共ニ草臥(クタビレ)ケレバ、或ハ疲伏(ツカレフシ)、又ハ落失テ、雑兵共ニ漸ク三十余騎ニゾ成ニケル。斯テ、十四日丑ノ剋計、小栗栖ノ里ヲ歴ヘケル処ニ、郷人共蜂起シテ、落人ノ通ルニ物具剥(ハゲ)ト{匍-甫+言(ノヽシ)}ル声シテ、鑓ヲ以テ竹垣ゴシニ無体ニ突タリケル。日向守ハ、馬上六騎目ニ通(リ)シ処ニ、薄運ニヤ有ケン。脇ノ下ヲゾ撞レケル。其時、是ハ何者ナレバ狼藉ナリト云ケレバ、郷人鑓ヲ捨皆々北去(ニゲサリ)ヌ。斯テ、三町計往過(ユキスギ)タレトモ、彼鑓疵痛手ナレバ、光秀道へ傍ニ馬ヲ乗寄、鎗ヲ田ノ中ニ立置ケル。是ハ鎗ヲステヽ逃タルト、後人ニソシラレジトナリ。扨、溝尾庄兵衛茂朝(シケトモ)ニ申ケルハ、唯今手負タレバ坂木迄ハ行付ガタシ。然レハ、爰ニテ自害セント思フナリ。是ハ辞世ナリ。汝ニ与ヘントテ、鎧ノ引合ヨリ一紙ヲ取出スル。溝尾謹デ是ヲ見ルニ、
 逆順無二門  大道徹心源
 五十五年夢  覚来帰一元
   明窓(ミヤウソウ)玄智禅定門
トゾ書ケル。是ヲ読ケル間ニ、光秀脇指ヲ抜テ、腹一文字ニ掻切ケレバ、茂朝驚キナガラ、即介錯シケリ。[明智軍記]

十三日、
惟任日向守(光秀)於山崎ニテ合戦、即時敗北、伊勢守(伊勢貞興)已來(下)三十余人打死了、織田三七(信孝)殿・羽柴筑前守(秀吉)已下従南方上了、合戦也、二条屋敷(下御所)日向守、放火了、首共本能寺ニ被曝了、
十五日、
惟任日向守醍醐邊ニ{空-工+牛、(牢)} 籠、則郷人一揆ト{夕-厂}打之、首本能寺へ上了、[言経卿記一]




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