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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][明智左馬之助湖水渡碑]
天正十年六月十三日、明智秀満、敗報に接し安土城を抜け坂本城に入る-明智左馬之助湖水渡碑-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
明智左馬之助湖水渡碑
撮影場所(Google マップ)
琵琶湖畔に建つ[明智左馬之助湖水渡]の碑です。
後は湖上に建つ琵琶湖文化館です。
[川角太閤記]
によれば、本能寺の変後、安土城に入って近江一円の掌握に当たっていた明智左馬之助(秀満)が、山崎の戦いでの敗報に接し、近江坂本城に退却する際に、堀秀政の軍と遭遇し、この付近から馬を湖水に乗り入れ渡り切ったとされます。
碑左側面に、その日[天正十年六月十四日]が刻んであります。
京阪電車石坂線の島ノ関駅から徒歩5分程、JR琵琶湖線大津駅からですと徒歩20分程(バス便もあります)です。
史料には、本能寺の変前後の明智左馬之助(秀満)に関して、以下のような記述が見られます。
安土山においては、津の国において起った敗亡が聞えて、明智が同所に置いた守将(明智光春)は勇気を失ひ、急遽坂本に退いたが、あまり急いだため、安土には火を掛けなかった。併し主は信長栄華の記念を残さざるため、敵の見逃した広大たる建築のそのまま遺ることを許し給はず、附近にゐた信長の一子がいかなる理由によるか明でなく、智力の足らざるためであらうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、ついで市にもまた火をつけることを命じた。
[イエズス会日本年報(1582年追加)、天正十年六月十三日条]
安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日(六月十四日)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたことを見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。
[イエズス会日本年報(1582年追加)、天正十年六月十三日条]
明智左馬之助湖水渡碑案内板
撮影場所(Google マップ)
碑の左側に案内板が立っています。
それによると、
明智左馬之助
湖水渡りのところ
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀は主君織田信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。
光秀の弟左馬之助光春は、信長の居城安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き返す途中打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがりびわ湖を渡り坂本に帰った。
しかし時すでに遅く秀吉の軍勢に囲まれ、六月十四日、光秀の妻女らとともに、城と命運をともにした。
湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている。
とあります。
[今も講談などで語りつがれている]とある通り、実際にあったことかどうかは、確認できません。
高柳光壽氏は、
[
戦史ドキュメント
本能寺の変]
で、
明智秀満の坂本入城については、名馬に騎して湖水渡りをしたということになっている。(中略)まことに颯爽たる風姿である、しかし騎馬で湖水を渡ったというのは[
川角太閤記
]が最初で、以降の雑書がこれを記しているばかり
と述べておられます。