其後播州より羽柴攝州有岡城入城アリテ、ソレヨリ三七郎殿一味ニ、山崎表へ打上リ、日向方ノ衆、十三日ニ山崎ニテ及一戰。日向守キリマケ、敗軍シテ一万計討死。日向守ハ山科ニテ一揆ノ手へ討捕之。
[宇野主水日記、天正十年六月三日条]
その後(光秀が信長を討った後)、秀吉は(備中高松城から東上し)播磨(播州、現兵庫県)を経て摂津有岡城(現兵庫県伊丹市)に入る、織田信孝(三七郎、信長の三男)が一味に加わり、山崎に進んだ、光秀勢は十三日に山崎で秀吉軍と一戦に及んだが、敗北し、一万程が討ち死にした、光秀は山科(京都府山科区)で一揆に遭い討たれた