坂本城主・明智光秀の妻
凞子(ひろこ)の墓(光秀の子女、玉子嬢、細川ガラシャの母)
天正四年(一五七六)十一月七日寂
戒名 福月真祐大姉
作家の中島道子氏の[明智光秀の妻・凞子]という小説序文に次のように凞子夫人のことが書かれている。
人生を旅と心得、旅を求めてやまなかった芭蕉は軍旅に敗死した武将への限りない愛惜を詠んでいる。その中で唯一女性に対する句が異彩を放っている。明智光秀の妻である。
比較的近年まで光秀は逆臣、叛将とのみ言われてきたにもかかわらず封建体制下の江戸時代にあって、光秀の妻を顕彰したのはまさに自由人芭蕉その人であった。明智が妻の句は[奥の細道]の旅の途次、越前(福井県)は丸岡に足を止めた折耳にしたことを後、伊勢の門弟山田又玄(ゆうげん)の妻に贈ったものである。
まさにこの一句に人生感があらわれていると云えよう。
とあります。