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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][西教寺(明智家関係碑)]
本能寺の変その後-西教寺(明智家関係碑)-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
西教寺 -天台真盛宗総本山-(公式ウェブサイト)
西教寺妻木一族供養塔
撮影場所(Google マップ)
凞子の墓の近くにこの供養塔があります。
[明智光秀のすべて]
によれば、
妻木氏は土岐頼貞の末流で、美濃妻木城(岐阜県土岐市)に住した土豪。美濃出身で土岐氏の流れを汲むと伝えられる光秀と、血縁的にも近い間柄として、光秀配下の重臣として早くから取り立てられていた
とされます。
碑銘には、
濃州妻木十二代城主
妻木藤右衞門廣忠(明智光秀公妻凞子の父)
濃州妻木(明智)一族供養塔
とあります。
ここでは凞子は広忠の娘となっていますね。
西教寺妻木一族供養塔解説板
撮影場所(Google マップ)
妻木一族供養塔の傍にこの解説板があります。
それには、
濃州妻木(明智)一族と西教寺
本能寺の変・山崎の合戦、坂本城の攻防等続く戦乱の中で、妻木城十二代城主妻木藤右衞門廣忠の兄弟三人が討死した。
また、一族郎党も多数討死していると言われている。
廣忠は天正十年(一五八二)六月十四日坂本城落城後明智一族に殉死した人々を西教寺に埋葬し供養した後、天正十年六月十八日に凞子(廣忠の娘)墓前で自刃したと伝えられている。(寛政重修諾家譜巻第三百一)
當山、塔頭實成坊(たっちゅうじつじょうぼう)の過去帳によると、
天正二年五月十五日 梅岩廣秀禅定門(濃州明智三郎四郎)
天正三年六月十八日 圓光宗梅禅定門(明智殿幕下)
天正七年二月十日 宗普法師
天正七年十一月十二日 盛賢禅定門(濃州妻木)
天正七年十一月十二日 盛厳禅定門
天正十年六月十四日 秀岳宗光大禅定門(明智十兵衛尉日向守光秀)
天正十年六月十八日 一友宗心居士(濃州明智藤右衛門)
以上の方々が過去帳に記載されている。
山崎合戦後、明智(妻木)一族が坂本城を守る為に多数の兵士を引き連れ、琵琶湖畔坂本城を守り続けたが、秀吉の軍勢と戦い、ついに坂本城炎上と共に一門は自害したと言われている。
ここに妻木一族供養の為に岐阜県土岐市小島一晃氏が供養塔を寄進された。
とあります。