天正二年甲戌正月、藤孝君を始諸将岐阜江至、年頭の賀を述らる、同十七日御饗応有、藤孝君・蒲生・青地・池田・松永・筒井・畠山・中川・閉地・関・分部・平塚等なり、此時信長公仰に明智光秀の四男を筒井主殿入道順慶の養子とし、光秀の娘を織田七兵衛信澄(信長の御舎弟勘十郎の子なり)に嫁すへき由、又藤孝君に光秀と縁家たるへきよし被命候、藤孝君は忠興君の剛強に過ると言を以御辞退被成候得とも、信長公よりも教誡を加えらるへき旨にて再三仰によつて、与一郎君と光秀の息女御縁約の事を諾せらる、其外諸士の不和を解しめて又光秀に被仰候は、汝を西国征将となすへし、因茲先丹波を征伐すへし、然らは長岡も倶に趣へしと有て御暇を給はり候、
[綿考輯録、第一巻 巻三]
天正二年正月、藤孝君はじめ諸将が岐阜に集まり、(信長に)年賀を述べた。同十七日に饗応があり、藤孝君・蒲生・青地・池田・松永・筒井順慶・畠山・中川・閉地・関・分部・平塚等であった。この時、信長は、光秀の四男を筒井順慶の養子とし、光秀の娘を織田信澄(信長の弟勘十郎の子)に嫁がすよう指示があった。また、藤孝君には光秀と縁家となるよう命があった。藤孝君は、息子忠興は剛強過ぎる(まだ躾が十分でなく、とても結婚できるような子ではない、というような意味合いでしょうか)と辞退したが、信長は、自分からもよく言って聞かせるからと再三にわたって勧めるので、与一郎(忠興)と光秀の息女(玉、後のガラシャ)の婚約を承諾した。その他、(信長が指示して)諸将の不和を解き、また、光秀には西国平定の主将とする、よってまずは丹波を平定するよう命があった。そういうことなので、長岡(細川)も一緒に(丹波を平定)に赴くようにとの命があり、暇を貰った。
忠興君御室家ニ向て、御身の父光秀は主君の敵なれハ、同室叶ふへからすとて、一色宗右衛門と云浪士并小侍従と云ふ侍女此二人計を付て、丹波之内山中三戸野(一書丹後国上戸村の名)と云所へ、惟任家の茶屋有しに送り被遣候、御内室様此上ハとて御髪を切せ給ひ、小侍従も同く髪を切けると也、其比の事にや光秀の許ニ被仰越けるハ、腹黒なる御心故に自らも忠興に捨られ、幽なる有様也と恨られ候と也(明智軍記ニ此御離別之時ニ御添被遣者ハ坂本より付来りける池田六兵衛・一式宗右衛門・窪田次左衛門と云々)、
[綿考輯録、第二巻 巻九]
(本能寺の変後)細川忠興は、妻(光秀娘玉)に、あなたの父光秀は主君(信長)の仇である、そのため、このまま同居することはできない、と告げて、一色宗右衛門という浪士と小侍従という侍女二人ばかりを付き添わせ、丹波の山中の三戸野(一書に丹後国上戸村の名がある)という所に惟任家(明智家)の茶屋があり、そこに送り届けた、玉は、それならばと髪を切り、小侍従も同じように髪を切ったという、玉は、その旨を光秀のところに伝えたが、その腹黒な行いに忠興からも捨られ、情けないことだと恨んだという、(明智軍記には、この時に付き添ったのは、坂本から一緒にやって来た池田六兵衛・一式宗右衛門・窪田次左衛門とある)
細川忠興ノ妻室ハ、光秀第三ノ娘ナルヲ、二八ノ春ノ比、江州坂本ヨリ迎テ、早四年相馴(ナレ)タリ。容色殊ニ麗ク、歌ヲ吟シ、糸竹呂律(リヨリツ)ノ弄(モテアソビ)モ妙(タエ)ナリケリ。舅兵部太輔藤孝ハ、歌道ノ達人ナレバ、数寄ノ道同機(ドウキ)相求ル習ニテ、一人最愛(ヒトシホイトヲシミ)思ハレケリ。又、父ガ不義ニ替(カワ)リ、貞女ノ志シ正シキニ依テ、与市郎モ妹背(イモセ)ノ契リ深カリケレトモ、忠義ノ道黙止(モダシ)ガタキニ付、互ニアカヌ夫妻ノ中ヲ、涙トトモニ、離別ニ及ブ心ノ程コソ痛ハシケレ。
[明智軍記]
細川忠興の妻は、光秀の三女で、(忠興)二十八の春頃に、近江坂本(の光秀のところ)から迎えて四年が過ぎた。姿かたちが麗しく、歌もよくし、箏・琵琶などの弦楽器(糸)と笙・笛などの管楽器(竹)にも長けていた。舅の藤孝は歌の達人で、(達人は)同じ趣味を持つ人を求める習い通り、一入(ひとしお)いとおしく思われていた。また、父(光秀)が不義を行っても、貞女として申し分がないことから、忠興(与市郎)も夫婦の契りを大事にしたいと考えたが、忠義に外れた行為(光秀が信長を倒したこと)を黙視(黙止)することはできず、互いに望まない、涙を流しながらの離別は、何ともいたわしい。