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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][東南寺]
本能寺の変その後-東南寺-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
東南寺門
撮影場所(Google マップ)
坂本城址碑
の50m程東に東南寺があります。
落ち着いた雰囲気のお寺さんです。
東南寺案内板
撮影場所(Google マップ)
門の左側に案内板があります。
それには、
東南寺
天台宗
本尊
延暦年間に伝教大師が創立した寺で、比叡山の東南、戸津(とつ)ケ浜にあったので東南寺という。寛永十五年、高島郡今津にあった一堂を当地に移したので一名を今津堂ともいう。
ここは伝教大師の法華経説法の場であったので、今も毎年八月、延暦寺の高僧による有名な[戸津説法]が続けられている。
平成七年三月
下坂本学区まちづくり推進協議会
とあります。
東南寺本堂
撮影場所(Google マップ)
門をくぐって左手に本堂があります。
東南寺坂本戦死者供養塔
撮影場所(Google マップ)
本堂右手に、坂本城落城の際に戦死した将兵を弔う供養塔(首塚)があります。
(由来の詳細は分かりませんでした)
坂本城落城の様子は、
[イエズス会日本年報追加]
に以下の記述があります。
安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日(六月十四日)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたこと を見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。
文中[(明智光春)]は訳者(村上直次郎氏)の訳注ですが、[明智秀満]のことを指しているようです。
[明智軍記]
に[明智左馬助光春]という名が見えますが、光春と秀満は同一人物(秀満もまた左馬助という呼び名がありました)とするものと、別人とするものがあり、いずれかかは定まっていないようです。
東南寺坂本戦死者供養塔
撮影場所(Google マップ)
更にもう一つ、供養塔(首塚)があります。
円錐状に石仏を積み上げてあります。