[資料 本能寺の変][読者のページ][さ行] |
蒼紫 さん のご意見 Mar/28/1999
光秀決起の真相……というか、ボクが考えるのは[義憤]が根源にあって、その他の出来事はきっかけに過ぎない……というものです。
民草や、末端の一兵士にまで心を配る光秀のような人物が、信長の行なう虐殺に耐えられなかったのは想像に難くないと思います。
また光秀にしてみれば、朝廷との間を取り持つことで信長を支え、武将としても能力を発揮し、[その結果が信長の栄華と権勢である]という自負を持つと共に、[比叡山の焼き討ちや一向一揆の虐殺といった出来事を産んでしまった]という罪悪感を感じたのかもしれません。
そんな中で、様々な要因が重なり[魔王討つべし]という心境に到ったのではないでしょうか。
決して己一人の為の決起ではなく、[降魔の利剣]を振るう心境だったのだろうと考えます。
JUVENTINO さん のご意見 Jan/16/2000
やっぱり信長さんと光秀さんっていうのはお互い理解し合えないというか、まるで三浦知良と岡田武史の関係にそっくりですね。
でも惜しいですよね。
2人とも能力的には政治の苦手な日本人の中では、傑出してますもんね。
あの2人が協力出来ていれば、貿易立国として近世の日本って、きっと発展していて、ああいう陰鬱な自給自足の農本主義的な徳川体制は出来てないですね。
新庄 和正 さん のご質問 Jun/17/1997
[本能寺の変]のことではないのですが、去年のゴールデンウィークに岐阜に旅行に行った時のことですが、関ヶ原を一通り観て回り、郡上八幡の方に行こうとしてたのですが、途中道に迷い車を走らせていると、『明智光秀の墓』と看板が出ており、そちらの方に行ってみると、かなり山に入った所に、ポツンと小さなお寺があり、明智光秀の墓がありました。
看板の説明書きに明智光秀は土民に討たれたのではなく(その時死んだのは影武者)、その後生き延びており、関ヶ原の合戦に参戦(徳川方)しようとし、その途中洪水に巻き込まれ死亡、その遺体を側近が運び、ここに埋葬したようなことが書かれていました。
真実かどうかは分かりませんが、今まで聞いたり見たりしてきた歴史とはかなり矛盾している話なので、このことについて何か知っているのなら教えて下さい。
『美山の民話』編集委員会編、岐阜県山県郡美山町教育委員会著、岐阜県山県郡美山町発行
『美山町の民話 第一集』より
[桔梗塚(ききょうづか)]
---中洞(なかぼら)--
豊臣秀吉とのたたかいで命をおとしたと言われておる明智光秀やが、実は生きのびて中洞村(現在の美山町中洞)にかくれ住んでおったという言い伝えがあるんじゃ。
秀吉といくさがいよいよあやうくなった時や。荒木山城守が光秀のところにやってきた。そして、
[このいくさは、とても勝てそうにもございません。わたしが身がわりになりますから、いっこくも早くここからにげのびてください。]
と言うのじゃ。
わが身を思う荒木山城守の心にうたれた光秀は、その言葉にしたがう決心をしたんじゃな。数人のけらいとともに、こっそりとおちのびていった。
それを見とどけた荒木山城守は、
[われこそは、明智光秀なり。]
と名のって身がわりにたたかったという。が、ついに敗れ、おちのびる途中、農民の竹やりでつかれて死んでしまったんじゃ。
中洞村にかくれ住んでおった光秀は、荒木山城守の恩をなんとか子孫に残そうと考えた。荒木の荒と、彼の恩の深さの深をとって荒深小五郎(あらふか こごろう)と姓を名のったということや。
そして、中洞村で静かにくらしておったが、慶長五年(一六〇〇年)に関ヶ原の合戦がおこると、家康にみかたしようと中洞村を出発したんじゃ。厚見郡藪川(あつみぐん やぶかわ)まで来た時やった。この川をわたろうとしたんじゃが、運悪く増水していたためにおし流され、亡くなってしまったということや。光秀、七十五歳の時やったそうな。
光秀のけらいの又五郎(またごろう)、忠右衛門(ちゅうえもん)、彦太郎(ひこたろう)、親兵衛(しんべい)らは、光秀の遺品を大切に持ち帰った。そして、中洞に墓をたてたんじゃ。
これが、今の中洞上ノ街道古屋敷というところにある石の塔と、五輪の塔じゃが、この墓が桔梗塚とよばれているのは、光秀の家紋が桔梗であったからじゃろうなあ。
<謝辞>
掲載を許可していただきました岐阜県山県郡美山町の教育委員会の皆様に、この場を借りて、厚くお礼申し上げます。
また、資料のコピーを手配していただきました岐阜県図書館郷土資料係の皆様、資料に関する情報をいただきました同図書館世界分布図センター岐阜県情報工房のスタッフの皆様にも、お礼申し上げます。
[桔梗塚]の写真がこちらのページに、また、岐阜県山県郡美山町の情報はこちらのページに掲載されています。是非一度、ご覧になってください。
住本 雄司 さん のご意見 URL: 看板のない博物館 Sep/6/1997
[本能寺の変]についてはズブの素人ですが、内向的な光秀がせっぱ詰まって謀反を起こしたというイメージは、多分に後世の解釈ではないかと思います。
勝手な想像ながら、私は伏線にある源氏と平氏の対立に注目しています。
平氏の流れである織田信長は、どんなに実力があっても征夷大将軍にはなれない。
[土岐は今、天が下しる・・・]の土岐は源氏ですから、明智光秀は、源氏こそ征夷大将軍として天下に号令をかけるべき、という使命感があったように思います。
同じく、源氏の流れの徳川家康も、明智光秀討伐には積極的でなかった。
信長に山陰出征を命じられた時、後醍醐天皇の退治に出かけながら、途中で引き返して六波羅を攻め滅ぼした足利尊氏の行路を、思い出したに違いない。