大乗院尋憲 [だいじょういん じゅんけい]
大徳寺公維 [だいとくじ きんつな]
- 前大納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
高倉永相 [たかくら ながすけ]
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- [変]当日、誠仁親王の当番として二条御所にあり、親王が御所に移る際に供をする。
鷹司信房 [たかつかさ のぶふさ]
- 権大納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
高橋虎松 [たかはし とらまつ]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
高橋藤 [たかはし ふじ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
高山右近・重友・ジュスト [たかやま うこん・しげとも]
- 天文21(1552)-元和元(1615)
- 高槻城主、織田に属し光秀の寄騎
- キリスト教を熱心に信仰し、大友吉統・小西行長・黒田如水らを洗礼させるなど、キリシタン大名として有名。
- 天正元(1573)年、荒木村重と共に高槻城を落として城主となり、村重の家臣の列に加わる。
- 天正6(1578)年、村重が信長に背くと、信長に降る。
- 天正10(1582)年5月17日、信長から、中国で毛利と対峙していた秀吉の後詰として出陣を命じられ、出陣準備中に[変]が勃発する。
- 光秀の寄騎であったが、[山崎]では秀吉に属し、中央の先鋒を務める。戦功により明石城主となる。
- 1614年、キリシタン禁教令によってマニラへ追放され、同地で没する。
滝川一益、左近将監 [たきがわ かずます(いちます)、さこんしょうげん]
- 大永5(1525)?-天正14(1586).9.9
- 信長の家臣
- 近江の甲賀出身と伝わる。天文年間には信長に仕えている。
- 永禄11(1568)年2月、北伊勢を攻め、神戸氏・長野氏との和議を調える。この結果、三男信孝が神戸氏、信包が長野氏の養嗣子となった。後は北伊勢にあって治安に務める。
- 北伊勢が治まり、信長の直轄軍として各地を転戦する。
- 天正10(1582)年2月、信忠に従い、甲斐征討戦に従軍、武田勝頼を天目山に追いつめ、首級をあげた。この結果、上野一国(一部北条領)と信濃二郡を与えられ、関東の経営を任される。
- [変]時には厩橋城にあり、[変]を知ったのは、天正10(1582)年6月9日晩とされる。
- [変]後、天正10(1582)年6月19日、神流川で北条軍との戦いに破れ、伊勢長島へ戻るが、信濃・上野を失い重臣の列から外され、[清洲]にも加われなかった。
- 秀吉・柴田勝家の抗争の際には、勝家に組するが破れ、秀吉に降った。
竹内長治 [たけうち ながはる]
- 天文4(1535)-天正14(1586)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
武田勝頼・四郎 [たけだ かつより・しろう]
- 天文15(1546)-天正10(1582).3.11
- 信玄の四男、甲斐武田家最後の頭領
- 17歳で元服し、諏訪の名跡を継ぎ、永禄8(1565)年に信長の養女を室に迎え信勝をもうけた。
- 天正元(1573)年、父信玄の病死後家督を継ぎ、盛んに版図の拡大に奔走するが、天正3(1575)年、長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗。
- その後も、家康とは駿河・遠江をめぐって抗争を繰り返すが、天正9(1581)年3月、遠江の高天神城を奪われ、縁戚関係にあった木曽義昌、親族の穴山信君が相次いで離反、木曽・穴山両者の手引きで織田・徳川軍が甲斐に攻め入ると、主要な家臣が次々と投降・退却し、重臣小山田信茂にも背かれ、天正10(1582)年3月11日 東郡の天目山で一族と共に自害した。
武田喜太郎 [たけだ きたろう]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
武田元明 [たけだ もとあき]
- 天文21(1552)-天正10(1582)
- 若狭守護武田義統の長男
- 天正8(1580)年、父の死後家督を継ぎ、信長から所領を安堵されるが、後、蟄居させられる。
- [変]では光秀に味方し佐和山城を攻略するが、秀吉軍に追われ、同年7月、近江海津で丹羽長秀に謀殺される。
竹中重治・半兵衛 [たけなか しげはる・はんべい]
- 天文13(1544)-天正7(1579).6.13
- 元美濃斎藤氏に仕えたが、滅亡後出家。後、信長に請われ秀吉に属する。
- 名軍師として知られる。秀吉に従い、1570年4月の浅井攻め・天正3(1575)年5月の長篠の戦い・天正6(1578)年3月の三木城攻めなどで、その能力を発揮した。
竹中彦八郎 [たけなか ひこはちろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
武野紹鴎 [たけの じょうおう]
- 文龜2(1502)-弘治元(1555).10.29
- 堺の皮革商、武野派と呼ばれる茶道の祖
- 大和の出身で後に堺に移り住んだ。
- わび茶を好み、千利休・津田宗及を初めとして多くの門人を育てた。
種田亀 [たねだ かめ]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
種村彦次郎 [たねむら ひこじろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
多聞院英俊 [たもんいん えいしゅん] =英俊
団忠直 [だん ただなお]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
団平八 [だん へいはち]
- 3月29日、甲斐平定戦の森勝蔵らと先遣隊として勤めた功績により美濃国岩村を与えられる。
茶々 [ちゃちゃ] =淀君
長宗我部元親 [ちょうそかべ もとちか]
- 天文8(1539)-慶長4(1599).5.19
- 天正元(1573)年、土佐を平定、以降、四国統一を目指し、近隣諸国に侵攻を繰り返した。
- 阿波に侵攻すると、信長は四国征討を決意、信孝本隊が渡海予定の、天正10(1582)年6月2日、[変]が勃発。先鋒として阿波に渡っていた河内の三好康長は、逃げ戻って、同8月に阿波を併合した。
- 天正12(1584)年、秀吉に攻められ、土佐一国を残して降伏。以降、秀吉に従う。(元親の妻は光秀の重臣斎藤利三の妹で、光秀との関係は深く、信長との関係も光秀を仲介者として維持しており、同じように、阿波の三好康長は秀吉を仲介者として信長に誼を通じていた。そのため、光秀が謀反を決意したのは、信長が三好を助けるため、信孝・丹羽長秀らに四国の長宗我部氏征討を命じたからだ、とする説がある)
津田勘七 [つだ かんしち]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
津田小藤次 [つだ ことうじ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
津田宗及 [つだ そうぎゅう]
- ?-天正19(1591).4.20
- 宗達の子。茶人。『宗及他会記』の著者
- 堺の豪商[天王寺屋]の主で、信長、次いで秀吉に仕えた。
- 光秀との交友も深かったが、[変]当時は、堺遊覧中の家康の接待役を務め、光秀の追及から家康を逃すために奔走したとされる。
津田宗達 [つだ そうたつ]
津田信澄 [つだ のぶずみ] =織田信澄
津田信益 [つだ のぶます、源十郎]
津田元嘉 [つだ もとよし]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
津田与三郎 [つだ よさぶろう]
土御門久脩 [つちみかど ひさのぶ]
- 陰陽頭
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
筒井順慶 [つつい じゅんけい]
- 天文18(1549)-天正12(1584).8.11
- 織田に属し光秀の寄騎、大和郡山城主
- 筒井順昭の子として生まれ、順昭が27歳で没したため2才で筒井家を継ぐ。
- 興福寺一乗院方の官符宗徒。
- (天正二年甲戌正月)十七日御饗応有、(中略)此時信長公仰に明智光秀の四男を筒井主殿入道順慶の養子とし、光秀の娘を織田七兵衛信澄(信長の御舎弟勘十郎の子なり)に嫁すへき由、又藤孝君に光秀と縁家たるへきよし被命候、[綿考輯録 巻三]
- 天正6(1578)年5月、信長から大和を与えられ、光秀の下で畿内の経営を任される。この時、信長は光秀に大和を与えようとしたが、光秀は辞退し、代りに順慶を推挙したといわれる。
- 大和郡山城の縄張りを光秀に依頼、大和の検地も光秀の指導を受けた。『明智軍記』によれば、光秀の第六子を養子に迎えたとされる。このように順慶にとって光秀は公私に渡り欠くことのできない存在であった。[明智光秀のすべて]
- [変]を知り、一旦は大和を発し山城まで進んだが、引き返し、郡山城に糧食を入れ始める。
- 再三の光秀の誘いに態度を明らかにせず、後、秀吉に従い、領国を安堵された。(これが元で後に[日和見順慶]と呼ばれるようになった。はっきりしない態度を[洞ガ峠を決め込む]というが、順慶は大和郡山城に籠り、去就を決めかねていたもので、洞ガ峠に出ていたわけではない。これは[武功夜話]の記述が元になっていると思われる)
- 筒井順慶先祖ハ。近衞ノ家ヨリ出候人ノ由。順慶親父ハ。順典ト申候。順慶一度ハ南都ノ出家ニテ被居候(頭註略)然ドモ器量ノ人ニテ還俗被致。武威ヲ振ヒ。國中半分過討從。添下郡筒井ト云所ニ。平城ヲ築。居城被仕侯。自分ノ領知ハ。只今ノ知行高六萬石程ノ事ニ候へドモ。甥或ハ妹聟姪聟多ク。一門廣キ故ニ自ラ手廣ク成被申。大和大半手ニ入レ被申。[大和記]
妻木範賢 [つまき のりかた]
- 光秀の家臣
- [変]後、長浜城を守備するが、秀吉に降伏。
妻木範煕 [つまき のりひろ]
妻木広忠 [つまき ひろただ]
- ?-天正10(1582)
- 妻木氏は土岐頼貞の末流で、美濃妻木城(岐阜県土岐市)に住した土豪。美濃出身で土岐氏の流れを汲むと伝えられる光秀と、血縁的にも近い間柄として、光秀配下の重臣として早くから取り立てられていたと思われる。光秀の妻は妻木氏であるとされる。[山崎]で光秀が敗死するに及び、近江坂本の西教寺で自害したという。[明智光秀のすべて]
寺田善右衛門 [てらだ ぜんえもん]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
藤九郎 [とうくろう]
- 信長の厩仲間衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
聖護院道澄 [どうちょう]
- 聖護院門跡
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
藤八 [とうはち]
- 信長の厩仲間衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
遠山新九郎 [とおやま しんくろう]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の留守番衆を命じられる。
徳川家康・松平元康[とくがわ いえやす・まつだいら もとやす]
- 天文11(1542)-元和2(1616).4.17
- 三河岡崎の松平広忠の長子。天文16(1547)年、駿河の今川家に人質として送られる途中、戸田康光の裏切りで織田信秀の元に送られる。天文18(1549)年12月、織田・今川の人質交換の際に今川氏の本拠駿府に送られる。(この間に、信長と家康の接触がある)
- 以降、今川氏に属して転戦し、永禄3(1560)年5月19日、今川義元が上洛の途次、田楽狭間で信長の急襲を受け敗死すると、同23日、13年振りに生地岡崎に戻った。
- 永禄7(1564)年に三河を平定、信長と同盟を結び、甲斐の武田・駿河の今川と争いながら、天正9(1581)年に遠江を平定する。
- 信長の甲斐征討に加わり、戦功によって駿河を与えられ、その御礼言上のために安土に伺候し、信長の薦めで堺を遊覧中に[変]が勃発する。
- [変]後、織田家督相続問題(小牧・長久手の戦い)では信雄と結び、秀吉に対抗したが、信雄が単独で講和してしまったため、家康も次男於義丸を養子として送り、講和する。
- 後、秀吉の小田原征伐に加わり、国替えによって本拠を江戸に移す。
- 秀吉の死後、大坂の陣によって豊臣氏を滅ぼし、徳川政権を樹立する。
徳大寺公維 [とくだいじ きんつな]
- 天文6(1537)-天正16(1588)
- 前内大臣
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
伴正林 [とも ?]
信長の御番衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
豊臣秀次 [とよとみ ひでつぐ]
- 永禄11(1568)-文禄4(1595)
- 秀吉の姉ともの長男
- 秀吉の継嗣となり内大臣関白職を継いだが、秀頼が生まれてからは疎んぜられ、乱暴・狼藉を働いたという理由で高野山に追放、後に、切腹させられた。
豊臣秀吉 [とよとみ ひでよし] =羽柴秀吉
虎若 [とらわか]