西園寺実益 [さいおんじ さねます]
- 永禄3(1560)-寛永9(1632)
- 権大納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
斎藤新五 [さいとう しんご]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
斎藤利三・内蔵介 [さいとう としみつ・くらのすけ]
- 天文3(1534)?-天正10(1582)
阿福の父、母は光秀の妹?
- 初め斎藤道三、次いで稲葉一鉄に仕え、一鉄の従弟妹を妻に迎えた。後、信長、天正8(1580)年には光秀に仕え、家老として1万石を与えられ丹波に住んだ。
- [変]に先立って、光秀から信長弑逆の決意を披瀝されたという。[信長公記(桑田)]
- [変]後、京極高次・阿閉貞征らが占拠した長浜城を守備する。
- [山崎]での敗戦後、近江堅田で捕らえられ切らる。(『川角太閤記』によれば、一鉄が利三を光秀の許から取り戻してくれるよう、信長に訴えたところ、光秀はこれを断った。これが元で信長に折檻され、それを恨んで信長襲撃を企てることになったという)
坂井、越中 [さかい、えっちゅう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
酒井忠次・左衛門 [さかい ただつぐ・さえもん]
- 大永7(1527)-慶長元(1596)
- 家康の筆頭家臣
- 古くから松平家に仕え、竹千代(家康)が今川に人質に送り出された際にも随行していた。
- 天正3(1575)年5月、長篠の戦いでは、鳶ケ巣山へ奇襲をかけ、武田軍の後方拠点を落とすなど活躍する。
- 天正10(1582)年5月、家康の安土伺候に従い、[変]後、家康と共に堺を脱出した。
酒井孫左衛門 [さかい まござえもん]
逆川甚五郎 [さかがわ じんごろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
佐久間信盛 [さくま のぶもり]
- ?-天正11(1583)
- 織田家の重臣
- 長く織田家に仕え、本願寺攻めの主将として働いたが、本願寺制圧後の、天正8(1580)年8月、本願寺攻めの稚拙さを責められ、高野山に追放された。
佐久間盛明・与六郎 [さくま もりあき・よろくろう]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
桜木伝七 [さくらぎ でんしち]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
佐竹、出羽 [さたけ、でわ]
佐竹弥吉 [さたけ やきち]
- 光秀の家臣
- 坂本城にあり
- 正月20日 吉田兼和が坂本城を訪れた時の奏者。
佐々清蔵 [さっさ せいぞう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
佐々成政、内蔵助 [さっさ なりまさ、くらのすけ]
- ?-天正16(1588).閏5.14
- 織田の家臣、柴田勝家の与力
- 初め信長の父、信秀に仕え、永禄4(1561)年頃までに黒母衣衆に抜擢され、以降天正3(1575)年頃までは信長の戦いに従軍した。
- 天正3(1575)年9月、越前の一向一揆を平定すると、勝家の与力を命じら、北陸方面の軍事を担当するようになる。
- [変]の頃には、上杉景勝と越中魚津で対峙していた。
- [賎ケ岳]では、勝家に組し、上杉氏に備えるため越中に残った。
- [賎ケ岳]後、秀吉方となった能登の前田利家と抗争を続け、天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは織田信雄・家康に呼応し、秀吉に対抗したが降伏。
- 天正15(1587)年の九州・島津征伐に参陣し、この功により肥後一国を封じられるものの、国人一揆を引き起こしたとして、翌年切腹させられた。
里村紹巴 [さとむら じょうは]
- 大永5(1525)-慶長7(1602)
- 連歌師
- 里村昌休から連歌を学び、天文21(1552)年、昌休没後、子昌叱の養育を託され、後に女婿として、共に連歌壇で活躍した。
- 連歌を通じた交際は、公家・武家・僧侶など広範囲で、三好長慶・信長・光秀・秀吉・細川藤孝らとも関係が深かった。
- 天正10(1582)年5月28日、光秀が興行した愛宕百韻に同席した。
- [変]直後、誠仁親王が二条御所から御所に移る際に、荷輿を用意して駆けつける。(そのため、事前に光秀決起を知っていたのではないかとする説がある)
誠仁 [さねひと]
- 天文20(1551)-天正14(1586)
- 皇太子
- 正親町天皇の第一皇子(長男)。
- 信長は、誠仁親王の元服の儀式のための費用を献上し、後には二条に造営した屋敷(二条御所)を誠仁親王に譲り渡している。
- [変]当日、二条御所にあって、織田信忠の申し入れで御所に移る。
三条西公国 [さんじょう にしきんくに]
- 弘治2(1556)-天正15(1587)
- 権大納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
四王天政孝、但馬 [しおうてん まさたか、たじま]
- 丹波の国人で亀山城主内藤忠行に従っていたが、天正3(1575)年、光秀が入国、その配下に入った。
- その後、光秀と共に転戦し、天正7(1579)年に福知山城を預けられる。[変]の際には、負傷した明智光忠に代って二条御所攻めを指揮し、織田信忠を討ち取っている。
- 子の又兵衛政実は、変後、明智秀満に従って安土城を占領したが、光秀敗死を知って落ち延びたという。[明智光秀のすべて]
塩河吉大夫 [しおかわ きちだゆう]
- 天正10(1582)年5月17日、信長から、中国で毛利と対峙していた秀吉の後詰として出陣を命じられる。
四条隆昌 [しじょう たかまさ]
- 弘治2(1556)-慶長18(1613)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
篠川、兵庫頭 [しのかわ、ひょうごのかみ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
柴田勝家・権六、修理亮 [しばた かついえ・ごんろく、しゅりのすけ]
- 大永2(1522)-天正11(1583).4.24
- 織田家譜代家臣で家老
- 居城が越後の新発田あったことから柴田氏を称するようになったと言う。
- 初め信長の父信秀に仕え、次男信行の付家老となる。
- 天文18(1549)年、信秀病死後、信行を擁立しようと試みて失敗するが、許される。信長が家督を継ぐと同時に信長の配下となり、[変]後、信長の妹お市の方を娶った。
- 信長上洛(永禄11(1568)年)後、京幾の政務を担当しながら、信長の直轄軍として各地を転戦した。
- 天正3(1575)年9月、越前を再平定後は北庄を居城とし、佐々成政・前田利家・不破光治・金森長近・原長頼の寄騎と共に、北陸方面を担当する。(勝家以下は越前衆と呼ばれる。信長が方面担当を置いたのはこれが初めてであり、以降、京畿方面を光秀、西国方面を秀吉、東海方面を家康、関東を滝川一益に担当させることになる)
- 天正10(1582)年6月、勝家らが上杉勢の東越中・松倉城を囲んでいるとき、[変]が勃発。寄騎らを残して光秀討伐に向うものの、秀吉に先を越される結果となった。
- 天正10(1582)年6月27日、織田家継嗣を決める[清洲]で、勝家は信長の三男信孝を推すが、秀吉の推す嫡男信忠の子三法師が家督を継ぐ事となった。
- これを契機に対立が続いていた勝家と秀吉が、天正11(1583)年4月21日、賎ケ岳で決戦。勝家軍が一方的に破れ、北庄に退却、同4月24日、追撃を受けて北庄城が落城、勝家は妻お市の方と共に自害。三姉妹(浅井長政の子)は秀吉に保護される。(信長の死後、主要な家臣が次々と秀吉に近づいて行く中で、勝家は最後まで織田家に忠誠を貫いたことや、又、[賎ケ岳]で前田利家に示した情誼や、[清洲]以降も織田家の分裂を回避しようとしていたことなど、を考えると、武骨だが、実直で、情に厚い武将であったように思われる)
柴田勝定・源左衛門 [しばた かつさだ、げんざえもん]
- ?-天正10(1582)
- 光秀の家臣
- 『明智軍記』によれば、妻は明智秀満の妹とし、元柴田勝家の家臣で、長年の持病を理由に所替えを辞退、これが勝家の勘気に触れ、天正7年、坂本にあった光秀を頼ったという。
- 丹波柏原城にあって、光秀の丹波平定に従って転戦。
- [変]では、二条御所攻めに参加、[山崎]では先鋒を務めたが、総崩れした明智軍の殿を務め討死した。[明智光秀のすべて]
島井宗叱・宗室 [しまい そうしつ]
- 天文8(1539)-元和元(1615)
- 博多の豪商で武野派の茶道家
- 酒屋・金融業を営み、対馬を中継地として明・朝鮮との貿易により資本を蓄積。この間肥前の松浦氏・豊後大友氏ら諸領主の軍資金などを調達し、諸種の特権を得た。
- また堺の豪商・茶人を通じて信長・秀吉に接近、京畿と博多・対馬を結ぶ流通経路を確保し、朝鮮・南蛮貿易品の取引を行う。[信長襲殺]
持明院基孝 [じみょういん もとよし]
- 永正17(1520)-慶長16(1611)
- 中納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
下方弥三郎 [しもかた やさぶろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
聖護院道澄 [しょうごいん どうちょう] =道澄
進藤 [しんどう]
新六 [しんろく]
- 信長の厩仲間衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
菅谷角蔵 [すがや かくぞう]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
菅谷勝次郎 [すがや かつじろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
菅谷長頼・玖右衛門 [すがや ながより・くえもん]
杉原家次 [すぎはら いえつぐ]
- 信忠の家臣
- 長谷川秀一と共に、家康一行の堺遊覧の案内役を務める。
薄田与五郎 [すすきだ よごろう]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
諏訪盛貞、飛騨 [すわ もりさだ、ひだ]
- 元室町幕府の奉公衆/光秀の家臣
- [山崎]では、本隊右翼に陣する。
世木弥左衛門 [せぎ やざえもん]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の留守番衆を命じられる。
銭屋宗訥 [ぜにや そうひつ]
千利休・宗易 [せんの りきゅう・そうえき]
- 大永2(1522)-天正19(1591)
- わび茶の大成者
- 早くから茶の湯を好んで北向道陳と武野紹鴎に学び、松屋久政・津田宗及・今井宗及など奈良・堺の豪商と交わった。
- 信長が堺の名物狩りを企てた時には、その命により3千石で抱えられたと伝えられる。
- [変]当時、堺遊覧中の家康接待の役を務めたとされる茶人の中に、その名はない。
- 信長没後は秀吉に仕える。
- 当時の茶道は各大名の情報交換の場として使われており、九州の大友宗燐は[内々のことは宗易に、公儀のことは秀長に]と述べていることから、この二人が豊臣家内で重要な地位を占めていたことが分かる。
- 後、秀吉の怒りを買って自刃。(理由は娘お吟を側室に差し出すことを拒んだ・自分の木像を大徳寺に建てた・茶道具を法外な高値で販売したなどの説があるが、定説はない)
- 利休の高弟七名(利休七哲)は、蒲生氏郷・高山右近・細川三斎・芝山監物・瀬田掃部・牧村兵部・古田織部とされる。
千福、遠江 [せんぷく、とおとうみ]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
袖岡、越中 [そでおか、えっちゅう]
祖父江秀重・五郎右衛門 [そぶえ(そふえ) ひでしげ・ごろうざえもん]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
祖父江孫 [そぶえ(そふえ) まご]
- 祖父江秀重の孫?、信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。