萩野 彦兵衛 [はぎの ひこべい]
羽柴 秀勝、御次丸 [はしば ひでかず、おつぎまる]
- ?-天正13(1585)
- 秀吉の養子、実父は信長
- 石松丸(秀吉の実子)の死後、養子として迎えられる。
- 天正10(1582)年、備前児島城攻めに初陣。以後高松城攻めに従軍し、[山崎]では実父信長の敵を討った。
- [清洲]の結果、光秀の旧領丹波を与えられ、亀山を居城とする。
- 天正11(1583)年、病にかかり、翌天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで岐阜を守備するが、病がひどく、亀山城で病死。
羽柴 秀長 [はしば ひでなが]
- 天文9(1540)-天正19(1591)
- 秀吉の異父弟
- 秀吉に請われて清洲に赴き、秀吉の補佐役につとめる。
- 天正10(1582)年、[山崎]の戦功により、但馬・播磨を与えられる。
- 天正13(1585)年、大和郡山城主となる。
- 天正15(1587)年、従二位大納言。
羽柴 秀吉・木下 藤吉郎・豊臣 秀吉、筑前 [はしば ひでよし・きのした とうきちろう・とよとみ ひでよし、ちくぜん]
- 天文6(1537)?-慶長3(1598).8.18
- 永禄4(1561)年、浅野又右衛門の養女お禰を娶り、お禰の実母方の木下姓を名乗るようになったといわれる。それ以前の秀吉については史料が殆どなく明らかでない。
- 信長に仕えたのは、永禄元(1558)年頃と思われる。後、次第に取り立てられ、永禄9(1566)年9月24日には墨俣築城を成功させている。
- 永禄11(1568)年9月、信長の上洛戦に加わり、後、光秀らと共に京や畿内の庶政を担当した。
- その後、各地に転戦し、天正元(1573)年7月、羽柴に改姓。
- 天正2(1574)年春、今浜に築城を開始し長浜と改名。この頃から、筑前守を名乗る。
- 中国方面の経略を任せられ、天正8(1580)年6月、播磨を平定、中国経略の拠点として姫路に築城を開始した。
- 天正10(1582)年5月、清水宗治の居城備中高松城を水攻めにする。毛利方が救援に小早川隆景・吉川元春らを送ると、秀吉も信長に来援を依頼する。信長はこれを受けて、家康接待中の光秀らに出陣を命じた。
- 天正10(1582)年6月3日、[変]を知り急ぎ毛利氏と和して東上を開始(中国大返し)、同6月13日、織田信孝・丹羽長秀・池田恒興らを加えた秀吉軍は、山崎で光秀を倒した。
- 以後、織田家継嗣をめぐって、織田信雄・柴田勝家らと争い([清洲]、[賎ケ岳]、小牧・長久手の戦い、など)、実質的に織田家を継ぎ、四国・九州・関東・東北を制して、天下を統一した。
- 後、太閤検地・刀狩など近世統治制度を確立したが、外交では朝鮮出兵を強行して失敗、慶長3(1598)年8月18日、子秀頼の行く末を家康らに託して、逝去。
長谷川 秀一・竹 [はせがわ ひでかず・たけ]
- ?-文禄3(1594)
- 信長の近習
- 天正10(1582)年5月21日、杉原家次と共に、家康一行の案内役を務め上洛、同6月1日、堺に入る。
- 天正10(1582)年6月2日、[変]を知り、家康に同道して堺から伊賀・伊勢に至ったとされる。
波多野 秀治 [はたの ひではる]
- ?-天正7(1579)
- 丹波八上城主
- 初めは信長の配下であったが、光秀による丹波攻略が始まると、居城八上城に籠ってこれに抵抗した。
- 長期にわたって包囲された結果、城内の飢餓が深刻となり、弟秀尚と共に投降。安土に送られると、光秀の助命進言にもかかわらず、信長は兄弟を磔刑に処した。
- 『総見記』によれば、この時、光秀は兄弟投降と交換に人質として母親を入れておいたが、兄弟が殺されたため、怒った城兵が人質を殺してしまった、という。この話を基にして、母親が殺された原因は信長にある、と恨んだ結果、光秀が謀反を決意したという説がある。
蜂屋 頼隆、兵庫頭 [はちや よりたか]
- 天文3(1534)-天正17(1589)
- [変]後、丹羽長秀らと大阪城にあった光秀の娘婿織田信澄を襲撃、自刃させ、13日、秀吉と合流して[山崎]に加わる。
服部 小藤太 [はっとり ことうた]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
服部 春安 [はっとり はるやす]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
服部 六兵衛 [はっとり ろくべい]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
塙 伝三郎 [はなわ でんさぶろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
馬場 信春・信房、美濃 [ばば のぶはる・のぶふさ、みの]
- 永正12(1515)-天正3(1575)
- 武田家の重臣
- 信玄の父信虎以来の家臣で、武田家では筆頭家老の位置にあった。
- 天正3(1575)年、長篠の戦いでは、山県昌景らと共に勝頼に撤退を進言したが聞き入れられず、殿を務めて討死した。
針阿弥 [はりあみ]
- 信長の同朋衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
伴 正林 [とも ?]
伴 太郎左衛門 [ばん たろうざえもん]
- 信長の御番衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
番頭、大炊介 [ばんとう、おおいのすけ]
東坊城 盛長 [ひがしぼうじょう もりなが]
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
彦一 [ひこいち]
- 信長の厩仲間衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
土方 次郎兵衛 [ひじかた じろべい]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
比田 玄蕃 [ひだ げんば]
- 光秀の家臣
- 岐阜県可児市広見の出身[明智光秀(小和田)]で、光秀が信長に仕官する以前からの家臣。
比田 帯刀 [ひだ たてわき]
- 光秀の近習
- [山崎]で敗色が濃くなると、轡を取って、一旦勝竜寺への退却を諫言したという。
日比屋 了珪 [ひびや りょうけい]
姫宮 [ひめみや]
日向守 [ひゅうが] =明智光秀
平尾 久助 [ひらお ひさすけ]
- 信長の馬廻衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
平野 勘右衛門 [ひらの かんえもん]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
平野 新左衛門 [ひらの しんざえもん]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
平野 道是 [ひらの どうぜ]
- 摂津国平野郷の町人で茶人
- 『天王寺屋会記』によると、永禄・元亀・天正(永禄元(1558)-1592)年間に活躍とある。[信長襲殺]
広橋 兼勝 [ひろはし かねかつ]
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
福島 正則 [ふくしま まさのり]
- 永禄4(1561)-1624.7.13
- 幼少から秀吉に仕え、[賤ケ岳]では一番手柄で近江河内に5千石を得る。
- 小牧・長久手の戦い、紀伊・雑賀攻め、朝鮮出兵などに加わる。
- 関ケ原の合戦では、徳川方に加わり宇喜多軍と激突、安芸49万石を得るが、その後大阪の陣では豊臣家との関係を疑われて、江戸城留守居役を命ぜられた。
福田、三河 [ふくだ、みかわ]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
福富 秀勝 [ふくとみ ひでかつ]
藤田 行政・伝五 [ふじた ゆきまさ・でんご]
- ?-天正10(1582).6.14
- 光秀の重臣
- 常に光秀と共に転戦して、山城静原山城を預けられる。
- [変]に先立って、光秀から信長弑逆の決意を披瀝されたという。[信長公記(桑田)]
- [変]後、光秀の使者として筒井順慶説得に赴くが、順慶は動かない。
- [山崎]では、本隊右翼に陣する。負傷し、淀まで後退するが自殺。
藤原 内基 [ふじわら ないき]
ルイス・フロイス [Luis Frois]
- 1532?-慶長元(1596)?
- ポルトガル人のイエズス会宣教師
- 東インドに派遣され、永禄6(1563)年に来日。
- [あらゆる文章の仕事に優れ、判断力優秀、天性語学的才能あり]・・・その文筆の才は遺憾なく発揮された。[回想の織田信長(解説より)]
- 天正11(1583)年、日本副管区長ガスパル・コエリュから[日本史]編述の命を受け、・・・全力を傾倒して[日本史]の執筆に従事した。[回想の織田信長(解説より)]
- [変]当時は、九州にあって、京にあった宣教師のカリヤンからの報告で[変]を知った。
- 長崎で没する。
波々伯部、権頭 [ほうかべ]
細川 ガラシア [ほそかわ がらしあ]
- 永禄6(1563)-慶長5(1600)
- 忠興の妻、光秀の娘
- 天正二年甲戌正月、藤孝君を始諸将岐阜江至、年頭の賀を述らる、同十七日御饗応有、(中略)此時信長公仰に明智光秀の四男を筒井主殿入道順慶の養子とし、光秀の娘を織田七兵衛信澄(信長の御舎弟勘十郎の子なり)に嫁すへき由、又藤孝君に光秀と縁家たるへきよし被命候、藤孝君は忠興君の剛強に過ると言を以御辞退被成候得とも、信長公よりも教誡を加えらるへき旨にて再三仰によつて、与一郎君と光秀の息女御縁約の事を諾せらる、[綿考輯録 第一巻 巻三]
天正二年正月、藤孝君はじめ諸将が岐阜に集まり、(信長に)年賀を述べた。同十七日に饗応があり、この時、信長は、光秀の四男を筒井順慶の養子とし、光秀の娘を織田信澄(信長の弟勘十郎の子)に嫁すよう指示があった。また、藤孝君には光秀と縁家となるよう命があった。藤孝君は、息子忠興は剛強過ぎる([まだ躾が十分でなく、とても結婚できるような子ではない]というような意味合いでしょうか)と辞退したが、信長は、自分からもよく言って聞かせるからと再三にわたって勧めるので、与一郎(忠興)と光秀の息女(玉、後のガラシャ)の婚約を承諾した。
- 青竜寺にて御婚礼有、十六歳ニ而御夫婦御同年也(御前様御名お玉様、後ニ伽羅奢様と云、御母ハ妻木勘解由左衛門範熈女也)、[綿考輯録 第二巻 巻九]
青竜寺(勝龍寺)で(細川忠興と光秀娘玉の)婚礼が行われた、二人とも十六歳の同い歳である(嫁がれた方は名前を玉といい、後のガラシア様といい、母は妻木範熈の娘)
- 忠興君御室家ニ向て、御身の父光秀は主君の敵なれハ、同室叶ふへからすとて、一色宗右衛門と云浪士并小侍従と云ふ侍女此二人計を付て、丹波之内山中三戸野(一書丹後国上戸村の名)と云所へ、惟任家の茶屋有しに送り被遣候、御内室様此上ハとて御髪を切せ給ひ、小侍従も同く髪を切けると也、其比の事にや光秀の許ニ被仰越けるハ、腹黒なる御心故に自らも忠興に捨られ、幽なる有様也と恨られ候と也(明智軍記ニ此御離別之時ニ御添被遣者ハ坂本より付来りける池田六兵衛・一式宗右衛門・窪田次左衛門と云々)、[綿考輯録 第二巻 巻九]
(本能寺の変後)細川忠興は、妻(光秀娘玉)に、あなたの父光秀は主君(信長)の仇である、そのため、このまま同居することはできない、と告げて、一色宗右衛門という浪士と小侍従という侍女二人ばかりを付き添わせ、丹波の山中の三戸野(一書に丹後国上戸村の名がある)という所に惟任家(明智家)の茶屋があり、そこに送り届けた、玉は、それならばと髪を切り、小侍従も同じように髪を切ったという、玉は、その旨を光秀のところに伝えたが、その腹黒な行いに忠興からも捨られ、情けないことだと恨んだという、(明智軍記には、この時に付き添ったのは、坂本から一緒にやって来た池田六兵衛・一式宗右衛門・窪田次左衛門とある)
- 秀吉の許しを得て復縁。
- 忠興が大阪の陣で徳川方に加わり出陣中、石田三成の手勢に囲まれるが、人質となることを恐れ自殺。
細川 忠興・長岡 三斎・長岡 与壱 [ほそかわ ただおき・ながおか さんさい・ながおか よいち]
- 永禄6(1563)-正保2(1645)
- 藤孝の長子
- 天正二年甲戌正月、藤孝君を始諸将岐阜江至、年頭の賀を述らる、同十七日御饗応有、(中略)此時信長公仰に明智光秀の四男を筒井主殿入道順慶の養子とし、光秀の娘を織田七兵衛信澄(信長の御舎弟勘十郎の子なり)に嫁すへき由、又藤孝君に光秀と縁家たるへきよし被命候、藤孝君は忠興君の剛強に過ると言を以御辞退被成候得とも、信長公よりも教誡を加えらるへき旨にて再三仰によつて、与一郎君と光秀の息女御縁約の事を諾せらる、[綿考輯録 第一巻 巻三]
天正二年正月、藤孝君はじめ諸将が岐阜に集まり、(信長に)年賀を述べた。同十七日に饗応があり、この時、信長は、光秀の四男を筒井順慶の養子とし、光秀の娘を織田信澄(信長の弟勘十郎の子)に嫁すよう指示があった。また、藤孝君には光秀と縁家となるよう命があった。藤孝君は、息子忠興は剛強過ぎる([まだ躾が十分でなく、とても結婚できるような子ではない]というような意味合いでしょうか)と辞退したが、信長は、自分からもよく言って聞かせるからと再三にわたって勧めるので、与一郎(忠興)と光秀の息女(玉、後のガラシャ)の婚約を承諾した。
- 青竜寺にて御婚礼有、十六歳ニ而御夫婦御同年也(御前様御名お玉様、後ニ伽羅奢様と云、御母ハ妻木勘解由左衛門範熈女也)、[綿考輯録 第二巻 巻九]
青竜寺(勝龍寺)で(細川忠興と光秀娘たまの)婚礼が行われた、二人とも十六歳の同い歳である(嫁がれた方は名前を玉といい、後のガラシア様といい、母は妻木範熈の娘)
- 天正10(1582)年5月17日、信長から、中国で毛利と対峙していた秀吉の後詰として出陣を命じられ、居城宮津を出たが、同6月3日、[変]を知り引き返した。
- [変]後、妻と離別し、父と共に剃髪して、光秀の再三にわたる来援要請を拒否した。その後、家督を継ぎ、秀吉に仕える。
- 関ケ原の合戦では、徳川方に加わり、豊前小倉39万石を与えられる。
細川 藤賢 [ほそかわ ふじかた]
細川 藤孝・長岡 与一郎・幽斎、兵部大輔 [ほそかわ ふじたか・ながおか よいちろう・ゆうさい、ひょうぶたゆう]
- 天文3(1534)-慶長15(1610)
- 室町幕府の奉公衆、織田に属し光秀の寄騎
- 幼少の頃から将軍家に仕え、永禄8(1565)年、幽閉されていた一乗院覚慶(後の足利義昭)を脱出させ、光秀の仲介によって信長に依頼し、共に奉じて上洛。
- 後、信長が義昭を京から追放すると、決別し信長に依り、大和・摂津などに転戦し、天正元(1573)年、信長から山城長岡を与えられ長岡と改姓。
- [変]後、光秀の誘いを断り、剃髪して家督を嫡子忠興に譲る。(光秀とは、義昭に従い越前朝倉に寄った時以来、義昭の上洛を助けて共に奔走し、丹波攻略で共同し、嫡子に光秀の娘を迎えるなど、その関係は深く、来援要請を断られたことは光秀の大きな誤算であったと思われる)
堀田 弥次左衛門 [ほった やじざえもん]
堀尾 吉晴 [ほりお よしはる]
- 天文12(1543)-慶長16(1611)
- 秀吉に仕え、後、三中老の一人となる。
堀 直政 [ほり なおまさ]
- 天文16(1547)-1608
- 越後三条城主
- 従父弟の縁で堀秀政・秀治に仕えた。
- 美濃斎藤氏攻め・長篠の戦いに軍功を立てた。
- [変]後、秀吉に従い、明智秀満を近江坂本城に攻める。
- [賎ケ岳]、小牧・長久手の戦いに従う。
- 天正13(1585)年、堀秀政が越前北庄に封じられると、これに従い、この時、堀の姓を賜る。[信長襲殺]
堀 秀政・久太郎 [ほり ひでまさ・きゅうたろう]
- 天文22(1553)-天正18(1590).5.27
- 信長の近習筆頭
- 始め美濃の斎藤氏に仕え、永禄8(1565)年、信長に仕える。
- 天正8(1580)年、信忠に従い摂津で荒木村重を討つ。
- 天正10(1582)年3月、甲斐武田征討軍に加わる。
- 天正10(1582)年5月20日、家康の接待役を丹羽長秀・長谷川竹・菅屋長頼らと共に務める。
- 接待役を済ませると、秀吉の備中高松城攻めに出陣し、そのまま秀吉に従い、[山崎]では中央の先鋒を務める。戦功により羽柴の姓を賜る。[信長襲殺]
本願寺 教如 [ほんがんじ きょうにょ]
本願寺 顕如 [ほんがんじ けんにょ]