あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や~
明智城[あけち] 岐阜県可児郡可児町
- 『明智軍記』では、土岐氏の支流明智氏の居城で、弘治2(1556)年、斎藤義竜に攻められ落城したが、その際に、光秀は明智城から逃れ出たとされるが、それを証明するものは何もない。[明智光秀(二木)]
愛宕山・愛宕神社[あたごやま] 京都市右京区嵯峨愛宕町
- 山頂には、火伏せの神を祀った愛宕神社(愛宕大権現)がある。
- [本能寺]の四日前、光秀はこの愛宕山に登り、仏前に参った後、神前で籤を取り、一宿参篭。翌日、連歌会を催している。
- 在二愛宕山一一座是祭二軻遇突智神一者也斯神爲レ火所レ灼薨故有二救レ火之誓一一座祭二素盞烏尊一往日神誓曰愛吾夫君言レ如レ此者吾當レ縊二殺汝所知國民一日將二千頭一云仍忌レ生甚二於死一故特忌二産火一此社始在二愛宕郡鷹峯北一于レ今有二石門之存一而上賀茂南大門村又斯社大門之所レ有也然 光仁天皇天應元年釋慶俊移二今處一斯山屬二葛野郡一然猶用二舊名一慶俊併二祭勝軍地藏一然地藏元無二勝軍之號一本朝依レ尚レ武慶俊附託謂本尊勝軍地藏也崇レ之則必得二勝利一依レ茲武家專尊二崇之一遂素盞烏尊軻遇突智神二座號二奥院太郎坊一而地藏権現爲二本宮一自レ茲社家絶レ跡天台宗四坊眞言宗二坊知二社事一大覺寺門主爲二寺務一[雍州府志]
安土城[あづち] 滋賀県蒲生郡安土町
- 天正4年正月、信長は、越後上杉謙信に対する備え、同時に石山本願寺攻撃の拠点として、京に近く中山道の要衝でもある安土山に、築城を開始した。
- わが国初の本格的な天守閣建築で、天守閣は外観5層(内部は7層)で、金箔瓦を用い、内部の障壁画は当時の日本画の巨匠、狩野永徳・光信などが製作を担当した。
- 天正7年に一部竣工、同5月11日丙辰(1579年6月5日)信長は天守に入った。完成は、天正9年といわれる。
- 翌年の天正10年6月2日戊子(1582年6月21日)、[変]が起こり、13日後の同15日、城は何者かによって焼かれた。
姉川[あねかわ] 滋賀県東浅井郡野村
- 姉川一帯は、信長の妹お市の方を夫人にし、織田家と同盟を結んでいた小谷城主浅井長政の支配下にあった。
- 元亀元年6月19日乙卯(1570年7月21日)、信長が、かねて親交のあった越前朝倉氏攻撃の兵を出した。長政は織田との同盟を破棄し、朝倉に与力すること決断。同28日、信長軍と浅井・朝倉軍が衝突した。
粟田口[あわたぐち]
- 京の七口(粟田口・東寺口・丹波口・鳥羽口・鞍馬口・大原口・荒神口)の一つで、東海道を山科を経て京に入る入口に当たります。
- 未明右府(信長)御出馬、至佐和山御滞留云々、近衞殿御出陣、至粟田口罷出申御礼、[兼見卿記(天正十年三月五日条)]
- (光秀が信長・信忠を倒した後)未刻大津通下向、予、粟田口邊令乘馬罷出、惟日對面、在所之儀萬端頼入之由申畢、[兼見卿記(天正十年六月二日条)]
- 日向守(光秀)・齋藤内藏助(利三)、築頸塚粟田口之東□□(路次カ)之北云々、[兼見卿記(天正十年六月廿三日条)]
- 弥平次(明智秀滿)親、入道也、丹州横山(天田郡福知山城)退城之砌生捕、今日粟田口之東、頸塚之邊ニ於テ生ナカラ八ツケニカヽル也、此以前洛中令乘車渡之云々、[兼見卿記(天正十年七月二日条)]
粟田神社[あわたじんじゃ] 京都市東山区粟田口鍛冶町一番地
- [当社の石段下の道は旧東海道・東山道であり、この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つである粟田口であり、京都を行き来する旅人は旅の安全を祈り感謝し、このお社に参拝されました。何時しか当社は旅立ち守護の神として崇敬を集めております。](粟田神社公式ウェブサイトより引用)
一乗谷[いちじょうだに] 福井市城戸ノ内町
- 朝倉氏の城下町として、京風文化が栄えたが、天正元(1573)年8月、信長の攻撃によって義景が自刃、朝倉氏は滅んだ。
稲葉山城[いなばやま] =岐阜城
犬山城[いぬやま]
- 天文6年、現在の位置に天守閣が造営され、織田信康が城主となり、天文16年、信康は斎藤道三の稲葉山城攻めで戦死、子信清が城主となる。
- 天正12年3月、小牧・長久手の戦いでは、織田信雄の家臣中川定成が守備していたが、秀吉側の池田恒興に急襲され定成は戦死、秀吉が入った。これに対し、信雄・家康連合軍は小牧城に陣を置いて対峙し、後、長久手の合戦となる。
宇佐山城[うさやま] 滋賀県大津市錦織町
- 元亀元年、森可成によって築城される。同年、浅井・朝倉軍が進攻して来た際に、森可成は討死。
- 翌元亀2年、比叡山焼き討ちの後、光秀は信長から近江滋賀郡を与えられて一時居城としたが、同時に築城を始めた坂本城が完成して、天正元年(元亀4年?)6月28日乙卯(1570年7月21日)廃城となった。[明智光秀(二木)]
宇治田原[うじたはら] 京都府綴喜郡宇治田原町
円明寺川(現小泉川)[えんみょうじ]
延暦寺[えんりゃくじ] 滋賀県大津市坂本本町
- 延暦7年、比叡山に最澄が一乗止観院(現根本中堂)を建立したことに始まり、以降、法然、親鸞、道元、日蓮などが修行を積んだ。
老ノ坂[おいのさか] (A1)京都市西京区大枝
- 光秀が本能寺の信長を襲撃する際に、亀山からこの峠を越えて京都に入った。
- [老い]は[大枝(おおえ)]が変化したもの。
大垣城[おおがき] 岐阜県大垣市郭町
- 天文4、土岐氏の一族宮川安定によって創建されたとされるが、諸説がある。
- 天正10年、信長の死後、池田恒興が城主となり、恒興が小牧・長久手の戦いで戦死すると、長子輝政が継いだ。
- 1600年、関ケ原合戦では西軍(豊臣方)の本拠となり、壮絶な攻防戦が繰り広げられた。
大野[おおの] 愛知県常滑市
大浜[おおはま] 愛知県刈谷市
小栗栖[おぐるす] 京都市伏見区小坂町
- 光秀が[山崎]で敗れ、坂本に退去する際に、土民に襲われ、死亡したとされる。
小谷城[おだに] 滋賀県東浅井郡湖北町・浅井町
- 浅井家が三代にわたって居城とした。
- 浅井長政は信長の妹のお市の方を妻としたが、浅井は越前の朝倉氏と結んで、抵抗したため、信長の攻撃を受け自刃。戦功により秀吉に与えられた。後、秀吉が長浜城に移ったため廃城となった。
上御所[かみごしょ] 京都府上京区
亀山城[かめやま] 京都府亀岡市荒塚町
- 光秀の居城として、丹波平定がほぼ終わった、天正6年頃に建設が始められた。[探求!丹波亀山城]
- 総構が掘られ、三層の天守閣を持つ城で、丹波・丹後支配の拠点となる。近郊十カ村を城下に連ねていたという。[探求!丹波亀山城]
- 光秀の死後は、豊臣氏の支配を経、江戸時代の慶長14年、岡部長盛が入封し、改修が行われ、以後、明治維新までの約120年間、松平、菅沼などの譜代大名が置かれた。
観音寺城[かんのんじ] 滋賀県蒲生郡安土町石寺
- 応仁2年、佐々木高頼により琵琶湖東の観音寺山(標高440メートル)山上に築城される。
北庄[きたのしょう] 福井市
岐阜城・稲葉山城[ぎふ・いなばやま] 岐阜市
- 永禄10年、斎藤道三が修築入城、永禄10年、信長が義龍・龍興を攻め落城。信長は稲葉山城を岐阜城と改め、天下統一の拠点とした。
- 金華山の山頂にあり、難攻不落と言われた城。
清須・清洲城[きよす] 愛知県西春日井郡清洲町
- 足利幕府管領斯波義重によって築かれたとされ、信長の父織田信秀が清洲奉行として入城した。後、織田信友、信長、織田信忠、織田信雄、豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直と城主が代った。
- 慶長15年、家康は名古屋城築城を開始、藩士・町人・寺社の移住(清洲越し)も進められ、慶長18年、完成。名古屋城の清洲櫓は清洲城の天守を移築したものといわれている。
腰越[こしごえ] 滋賀県蒲生郡安土町
小牧山城[こまきやま]
- 永禄6年、清洲城にあった信長は、美濃攻略の拠点として、尾張平野の中央に位置する小牧山に築城し、本拠を移した。
- 永禄10年、美濃平定を済ませた信長は岐阜城に移ったため、廃城となった。
- 天正12年、小牧長久手の戦いでは家康・信雄連合軍の主陣地となった。
御霊神社[ごりょう] 京都府福知山市
- 室町時代の文正年間の創建といわれる。
- 光秀を配祀しており、光秀直筆の書状や陣中制法などを所蔵している。
雑賀[さいが] 和歌山市
坂本城[さかもと] 滋賀県大津市坂本町
- 光秀は、比叡山焼き討ちの後、信長から近江滋賀郡を与えられると、元亀2年末から翌3年始めの時期に築城を開始し、元亀4年6月28日乙卯(1570年7月21日)に完成。
- 明智は、都から四レーグアほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五レーグアもあるかの大湖(琵琶湖)の辺(ほと)りにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。[回想の織田信長<フロイス[日本史]より>、第十七章]
- 天正5年、光秀が丹波亀山に移って、明智秀満が入った。
- 自今日惟任日向守(光秀)坂本之城普請云々、丹州(細川丹波守)人數ニ罷下之由申訖、[兼見卿記、天正八年閏三月十三日条]
今日より光秀の坂本城は普請(改修工事)を始めたとか、細川藤孝から応援を送ってもらったという
- 惟日(惟任光秀)此間普請也、爲見廻下向坂本、召具侍從、果子一折五種、持參、面會、相伴夕食、入魂機嫌也、普請大惣驚目了、[兼見卿記、天正八年閏三月廿八日条]
光秀は(坂本城の)普請(改修工事)を進めている、様子を見学に坂本に向かう、侍從(息子の吉田兼治)を連れ、菓子折一つと肴(五種)を持参、面会、夕食の接待を受けた、心のこもったもので大変満足した、普請の様子には(立派なもので)たいそう驚いた、
- 惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、何れも/\、同事に本国へ罷り帰り候て、御陣用意候なり。[信長公記、天正十年五月十七日条]
光秀は(信長から秀吉の備中攻めを助けるよう指示があったので)安土から坂本に帰った、(長岡与一郎、池田勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛等、先陣として出勢するよう指示があった者)いずれも本国へ帰り出陣の用意である、
- 惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。[信長公記、天正十年五月廿六日条]
- 惟任日向守(光秀)へ爲礼坂本へ下向、御祓・百疋遣之、於小天主(守)對面、[兼見卿記(別本)、天正十年正月廿日条]
光秀へお礼のため坂本へ下る。お祓い(お祓いを済ませた品物?)と金子百疋を届けた。小天主で対面した。
- 爲(衍カ)惟任日向守(光秀)爲礼坂本へ被(マヽ)下、御祓・百疋持參、面會、於小天主(守)有茶湯・夕餐之儀、[兼見卿記(正本)、天正十年正月廿日条]
光秀へお礼のため坂本へ下る。お祓い(お祓いを済ませた品物?)と金子百疋を持参した。面会し、小天主で茶湯と夕食。
- 坂本之城(近江滋賀郡)、天主(守)放火云々、高山次右衞門付火切腹云々、[兼見卿記(正本)、天正十年六月十五日条]
坂本城の天主(守)が放火されたという、高山次右衞門が火を付け切腹したとか。
信貴山城[しぎさん] 奈良市生駒郡平群町
- 木沢長政によって築城され、松永久秀が焼失した城を再興した。
賎ケ岳[しずがたけ] 滋賀県伊香郡木之本町
下御所[しもごしょ]
周山城[しゅうざん] 京都府北桑田郡京北町
勝龍寺城[しゅうりゅうじ] 京都府長岡京市勝龍寺
- 歴応2年(1339)に細川頼春が築城したといわれ、天正6年(1578)明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が細川忠興に嫁いだ城で、後年の山崎の合戦では光秀がここに本陣を構えました。
鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、我が国の城郭史上でも貴重なモノであることが発掘調査で明らかになりました。この跡地が管理棟(資料展示室)、櫓や庭園などを備えた都市の公園の姿で復興しました。(長岡京市観光協会のホームページ)
- 在所之構普請、白川・浄土寺・聖護院人足合力也、
日向守敵歟、自山崎令出勢、於勝龍寺西足軽出合、在鉄放軍、此近邊放火、[兼見卿記(別)、天正十年六月十二日条]
白川・浄土寺・聖護院などから人手を集め、淀城の改修が行われた、(光秀は、前日、本陣としていた下鳥羽に戻り、淀城の改修に着手した)
光秀の敵方か、軍勢が山崎より寄せて来た、勝龍寺の西方で(出勢してきた軍と明智軍の)足軽同士が出会い、鉄砲の打ち合いとなった、近辺に火がつけられた、
- 在所之構、南之外堀普請、白川・浄土寺・聖護院三卿之人足合力也、自攝州山崎表へ出足軽、勝龍寺之西ノ在所放火、此義ニ近可衆驚、止普請各皈在所、[兼見卿記、天正十年六月十二日条]
白川・浄土寺・聖護院の三郷(村)から人手を集め、淀城南の外堀改修が行われた、摂津から山崎へ足軽が寄せて来て、勝龍寺の西方で放火を働いた、近くにいた人はこれに驚き、普請を中止し、それぞれの在所に帰った、
- 雨降、申刻至山崎表鐵放之音數刻不止、及一戰歟、果而自五條口落武者數輩敗北之体也、白川一条寺邊へ落行躰也、自路次一揆出合、或者討捕、或者剥取云々、自京都知來、於山崎表及合戰、日向守令敗軍、取入勝龍寺云々、討死等數輩不知數云々、天罰眼前之由流布了、[兼見卿記、天正十年六月十三日条]
雨、申刻(午後四時前後)山崎辺りでは鉄砲の音が数刻(一刻はほぼ二時間)止まず、戦いが行われているようだ、果たして五条口から戦いの敗れた落ち武者が数人見られた、白川一乗寺辺りへ落ち行く様子だった、(落ち行く)途中では一揆に出会い、或る者は討たれたり捕まえられたり、また或る者は追剥されたりしたという、京都から知り合いが来て、山崎の合戦で明智軍は敗れ、勝龍寺に引いたという、討ち死にした兵は数知れずとか、[天罰が下るのはまもなく]という話が広まっているそうだ、
少林寺[しょうりんじ] 滋賀県守山市守山町
新府城[しんぷ] 山梨県韮崎市
墨俣城・一夜城[すのまた] 岐阜県安八郡墨俣町
- 稲葉山城(岐阜城)攻略のため、信長に命じられ、佐久間信盛、柴田勝家らが、築城を試みるが、斎藤方の攻撃に遭って断念。永禄9年、木下藤吉郎(秀吉)が、蜂須賀正勝ら近郷の野武士を集め、予め木材を加工し筏に組み上げて、長良川上流から流し、これを墨俣で引き上げて組み立てた。一夜にして城が出現したことから、一夜城と呼ばれる。(但し、史実ではないとするものもある)
膳所城[ぜぜ] 滋賀県大津市
- 東海道の要衝の地にあって、家康は大津城を膳所に移し、戸田一西を城主とする。
- 後、本多、菅沼、石川氏に代り、再び本多氏が城主となった。
瀬田・勢田[せた] 滋賀県大津市
多聞山城[たもんやま] 奈良県
- 松永久秀の居城で、日本で初めて塁上に長屋造りの多聞櫓を設けた城で、近世城郭の原形となったといわれる。
天正元年、信長に叛旗を翻したが降伏、城は破却された。
丹波口[たんばぐち]
- 京の七口(粟田口・東寺口・丹波口・鳥羽口・鞍馬口・大原口・荒神口)の一つで、京と旧山陰街道との出入り口に当たります。
- 現在のJR丹波口駅よりも700-800m程南の七条通にありました。
天神馬場[てんじんばば] 大阪府高槻市
天王山[てんのうざん] 京都府大山崎町
- 淀川を挟んで男山と対峙した丘陵。京都盆地の出口を押さえる軍事・交通上の要衝で、古来、しばしば戦場となったが、特に、[山崎]の舞台として有名。
- この山の占領が両軍の勝敗を決したことから、勝敗の別れ目を決する事柄などを[天王山]というようになった。山中には、宝積寺(ほうしゃくじ)・大念寺・解神社などの古社寺が多く、麓には千利休が建てたといわれる茶室待庵がある。
東大寺[とうだいじ] 奈良市雑司町
- 聖武天皇の国分寺制度の総寺として、天平時代に造営された。そのうち大仏殿は二度火災にあい(治承4年12月、永禄10年10月)、現在のものは江戸時代に再建されたもので、当初のものより規模は小さくなったが、それでもなお世界最大の木造建築であり、奈良時代から鎌倉時代にかけての文化財が多く揃っている。
富田[とんだ] 大阪府高槻市
長篠城[ながしの] 愛知県南設楽郡鳳来町
長浜城・今浜城[ながはま・いまはま] 滋賀県長浜市公園町
- 1336年、京極道誉(きょうごくどうよ)によって築城され、以後、家臣の今浜氏、上坂氏が守将として在城した。
- 1575年、小谷城の浅井氏が滅んだ後、秀吉が入封。それまで今浜という名を、長浜と改名した。
- 後、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成・信正らが城主となり、元和元年、信正が摂津高槻に移るに至って廃城となった。
南蛮寺[なんばんじ] 京都府京都市中京区姥柳町
- 16世紀後半に建てられたキリスト教聖堂。最も有名な京都の南蛮寺は、天正5年、オルガンチノが信長の援助を受けて完成。3階建で和風に洋風を加味した、いわゆる南蛮風で、技巧をこらしたものであった。
- 本能寺からは200mほどの距離にあり、[変]の様子を宣教師カリヤンが目撃し、九州のフロイスに報告している。
- 天正16(1588)年、キリシタン禁止令によって破壊された。
二条御所[にじょうごしょ]
- 信長が京の屋敷として造営。後、誠仁親王に譲る。
- 天皇([変]当時は正親町天皇)の居館を[上御所]と呼ぶところから、誠仁親王の住む二条御所を[下御所]とも呼んだ。
- [変]当時の[二条御新造][二条御所]はこの館を指す。(家康が造営した[二条城]とは別)
二条御所[にじょうごしょ]
- 高柳光壽氏は[戦史ドキュメント 本能寺の変]の中で、[二条御所]について解説しているが、これは足利義昭の居館[武家御城(武衛陣)]のことで、信長の屋敷で後に誠仁親王に譲った[二条御所]はと別。
二条城[にじょう] 京都府中京区二条通り堀川
- 家康が上洛の際の宿所として造営したもので、[変]当時の[二条御所]とは別の建物。
創建当初の建物は二の丸殿舎など数棟であるが、大政奉還を決めた豪壮な大広間・障壁・襖絵のほか、小堀遠州が作庭したという巨石を配した庭園がある。
番場[ばんば] 滋賀県坂田郡米原町
比叡山[ひえい] >延暦寺
備前[びぜん] 岡山県東南部
日野[ひの] 滋賀県蒲生郡日野町
姫路城[ひめじ] 兵庫県姫路市
- 貞和2年、赤松則村の子貞範が姫山を中心として築き、天正8(1580)年、秀吉が中国進攻の根拠として三層の天守を築いた。
- 後、池田、松平、榊原、本多氏が入り、増修築を繰返して、現在の形が出来上がった。
- その後の戦火を免れ、当時のままの形を残す、ほとんど唯一の城である。
福知山城[ふくちやま] 京都府福知山市
- 天正7年、光秀が丹波攻略の際に、それまでの横山城を福知山城と改め改修した。
武家御城(武衛陣)[ぶけごじょう(ぶえいじん)] 京都府上京区勘解由小路室町
- 永禄12年、織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭の居館として造営。
- 四方の堀を広げ、水を湛え、内側に両面の石垣を高く畳み、所々に石蔵(方形の石垣、高さ四間一尺)を築いて櫓を設け、南および東西の三ヶ所に大きな門を構え、跳橋を架し、その内にまた小堀を掘り、さらにその内に殿舎を建て、庭園を営んであった。すなわち御所と呼んだけれども、武家の住居として築営したものであって、当時、武家御城とも称し、堅固であったとはいい難いけれども、一通りの平城と認むべきものであった。そしてその周囲には奉公の衆の邸宅があり、西側には町家が立ち並んでいた。[本能寺の変]
洞ケ峠[ほらがとうげ] 京都府八幡市
本圀寺[ほんこくじ] 京都府京都市山科区
- 永禄11年、上洛し室町十五代将軍に就いた足利義昭が一時本拠とした。
本能寺[ほんのうじ] 京都府京都市中京区元本能寺町
- 法華宗本門流の本山。
- 1415年、日隆上人が油小路高辻の地に本応寺を創立、後に破壊され、1433年、六角大宮に寺地を移して本能寺と改称された。
- 当寺敷地、六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西方四町々事、[本能寺文書(六郎書状 弘治三年歟)]
- 天文法華の乱で焼失したが、天文16-天文17年頃、第8世日承によって四条坊門の北の地に再興された。
- 下京六角与四条坊門、油小路西洞院中間方四町々事、雖レ為二沢村千松私領一相二副本証文数通一売渡候分明也、[本能寺文書(永禄十一 九月四日)]
- 為二定宿一之間余人ノ寄宿ハ停止之事、[本能寺文書(織田信長掟書 元亀元年十二月)]
- 本能寺は当時四条西洞院にあった。そしてこの前(この地に移転する前)に付近の民家は他所へ移転させ、四方に掻き上げの堀を掘り、その内側に土居を築き、木戸を設けて出入を警戒するという構えで、内に仏殿以下、客殿その他の殿舎を建て、厩舎までも設けてあるといった有様で、小城郭の観を呈していたが、まだ塀は塗らないであった。[本能寺の変]
- 当時は広大な寺域を占め、信長上洛の際にはたびたび仮宿所となったが、[変]で焼失した。
- 御屋敷之事今度成二御墓所一殊当寺為二旧地一上者返遣候条、寺僧如二前々一令二還住一法事勤行不レ可レ有二懈怠一者也、[本能寺文書(織田信孝施行状 天正十 七月六日)]
- 当寺之儀御屋敷明申事候条、御寺家衆如二前々一御還住尤之由筑州被レ申候、[本能寺文書(増田長盛書状 天正十 七月十三日)]
- 後に信孝が、父信長の廟を建てたために本能寺は再び復興されたが、秀吉の区画整理により、天正年間に東京極三条坊門南の地に移された。
- 在二三條京極一日隆上人之開基而日蓮宗二十一箇寺之随一也始在二三條坊門西洞院一織田信長公寓二斯寺一爲二明智光秀一被レ弑時一旦爲二焦土一其後移二今處一堂前有二信長公之塔一有二寺産四十石餘一 [雍州府志]
- 在二三條柳水町一中古日藥宗本能寺在二斯處一繊田信長公有レ事之地也爾後本能寺移二京極二條南一 [雍州府志]
- 本能寺の位置、周囲、建物については[本能寺想像図]を参照してください。
三草山[みくさ] 兵庫県加東郡社町
- 寿永3年(1184)、源義経と平家との合戦の舞台として知られる。
八上城[やがみ] 兵庫県多紀郡篠山町
- 光秀決起の真相をめぐる諸説の中で、怨恨説の一つである[波多野兄弟誘降の件]の舞台となった。
山崎[やまざき] 京都府乙訓郡大山崎町
- 淀川を挟み天王山と男山と挟まれた狭隘の地で、京都と大阪を結ぶ摂津街道が通る軍事・交通上の要衝。
- [山崎]の舞台として有名。
大和郡山城[やまとこおりやま] 奈良県大和郡山市城内町
- 筒井氏が居城筒井城の北を守る支城として、土豪の居館を整備をしたのが始まりといわれる。
- 松永久秀が信貴山城に入ってからは、たびたび筒井城を攻撃されたが、久秀が憤死を遂げて後、郡山城を本城とするようになった。
- 順慶の死後、その子定次が継ぎ、次いで、秀長、水野、本多、柳沢と城主が代った。
余呉・余吾[よご] 滋賀県余呉町