[
資料 本能寺の変
][
本能寺の変 ゆかりの地
][山崎合戦羽柴本陣]
天正十年六月十三日、山崎の戦い、羽柴・明智両軍の戦い-山崎合戦羽柴本陣-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
地名・史跡名 天神馬場
人物 羽柴秀吉
上宮天満宮(公式ウェブサイト)
山崎合戦の秀吉本陣跡案内板(高槻駅)
撮影場所(Google マップ)
JR高槻駅北口の歩道橋にある[山崎合戦の秀吉本陣跡]の案内板です。
案内板には、
天正10年(1582)、[本能寺の変]で織田信長を滅ぼした明智光秀を、羽柴(豊臣)秀吉が天王山の戦いで打ち破りました(山崎合戦)。
秀吉は、本陣を上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)下の[天神馬場]に置き、合戦の采配をふるいました。
この地は西国街道に面し、芥川宿にも近いため、戦国時代には信長をはじめとする様々な軍勢が、たびたび駐屯する場所でした。
平成25年1月 高槻市教育委員会
とあります。
今は[天王山の戦い]と呼ばれることは少なく、[山崎の戦い][山崎合戦]と呼ばれます。
これは、山崎の戦いに関して、[天王山]という名は、
[明智軍記]
などにみられるのみで、他の殆どの史料は、羽柴・明智両軍の戦闘のあった場所を[山崎]としていることによります。
この[山崎]は、今の大山崎町(京都府乙訓郡)の北西、円明寺川(現在の小泉川)の付近になります。
上宮天満宮
撮影場所(Google マップ)
撮影場所(Google マップ)
撮影場所(Google マップ)
高槻駅前歩道橋から望んだ上宮天満宮と、境内入口、入口と三柱山門の間にある鳥居です。
入口からは、かなりの勾配です。
この上宮天満宮一の鳥居から境内入口までが、[天神馬場]だったようです。
高槻駅前の[山崎合戦の秀吉本陣跡]の案内板に、秀吉がここ[天神馬場]に本陣を置いたとありますが、その根拠は(不勉強で)未詳です。
ただ、[天神馬場]に関しては、以下のように多くの記述があり、この場所をよく利用していたことは確かなようです。
山崎御着陣。先陣は天神の馬場に陣取る。
[信長公記、永禄十一年九月晦日条]
中将信忠、北畠信雄卿、織田上野守、神戸三七信孝、越前衆、不破彦三、前田又左衛門、佐々内蔵佐、原彦次郎、金森五郎八、日根野(ひねの)備中、日根野弥治右兵門罷り立ち、摂津国天神の馬場に御陣を懸けられ、高槻へ差し向かひ、
[信長公記、天正六年十一月九日]
信長公御父子、摂州伊丹表に至りて、御動座。山崎御陣取り。次の日、天神馬場より路次すがら、御鷹つかはされ、
[信長公記、天正七年三月五日]
同九日に(信長は)御馬を天神馬場に出だされ、
[信長公記、天正七年十二月十六日]
(信長は)郡山へ一御成り、天神馬場、大田路次通り、御鷹遣はさる。
[信長公記、天正八年三月一日]
六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川を打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。
[信長公記、天正十年六月一日条]
山崎合戦秀吉本陣跡碑(上宮天満宮)
撮影場所(Google マップ)
正面本殿の手前左側([
てんじんさん境内案内図(上宮天満宮)
]を参照)に神輿蔵があり、その隣にこの碑があります。
山崎合戦 秀吉本陣跡
高槻市のウェブサイト([
秀吉本陣跡<ひでよしほんじんあと>
])には、この碑について、
本能寺の変後、明智勢を山崎の合戦で討った秀吉が本陣を構えて采配を振るったところ。もとは上宮天満宮の社頭にあったが、危険なので境内に移された。
とあります。
本能寺の変前後の羽柴勢
天正十年六月五日
羽芝筑前守西國与和睦シテ近日可有上洛旨頗ニ風聞在之、・・・從順慶者羽筑へ今中へ被差遣入魂由風聞、
[蓮成院記録、天正十年六月五日条]
羽芝筑前守(羽柴秀吉)は西國(毛利)と和睦し、近く上洛するという噂が頻りに飛び交(とびか)っている。・・・(筒井)順慶は羽筑(羽柴筑前守、秀吉)に使いを遣わして、恭順の意を伝えたとの噂がある。
[蓮成院記録]には、[(順慶が秀吉に)恭順の意を伝えたとの噂がある]とある一方、
[多聞院日記、天正十年六月五日条]
には、[順慶は惟任(惟任日向守、明智光秀)と手を組むという(順慶ハ堅以惟任ト一味云々)]とあります。真偽いずれとも判じがたいさまざまな情報が飛び交っていたということでしょうか。
毛利の征服者羽柴殿の陣中においては、信長の死を聞くや、毛利がこれを聞く前に己に有利な平和を彼と結んだ。而る後殿達は急いでその城に帰り、羽柴殿自らも明智と戦争をする準備をした。
[イエズス会日本年報(1582年追加)、天正十年六月五日条]
天正十年六月十二日
十二日、葉(羽)柴藤吉既至攝州、猛勢ニテ上、家康既至安土著陳云々、如何可成行哉覧、惟日柴八幡・山崎ニ在之淀邊へ引退歟云々、依之今朝ハナラ中靜ル、
[多聞院日記、天正十年六月十二日条]
十二日、既に葉柴藤吉(羽柴藤吉郎、秀吉)勢は、攝州(摂津)に至ったという。猛烈な速さである。(徳川)家康は安土に着陣したという。どうなることであろうか。惟日(惟任日向守、光秀)勢は柴八幡(未詳、やわた、京都府八幡市付近のことかと思われる)・山崎(京都府乙訓郡)辺りに布陣していたが、淀(京都市伏見区)辺りまで引いたという、そのため今朝はナラ(奈良)中、胸を撫(な)で下ろした*。
* 前日十一日に、[順慶が切腹した][明智家臣の藤田伝五に切腹せよと迫られた]との噂が伝わり、ナラ(奈良)中驚き肝を冷やしたが、八幡(やわた、洞ヶ峠一帯)から明智勢が淀まで引いたということで、ひとまず胸を撫(な)で下ろしたことを指す。
六月十二日ニ羽柴筑前守殿從西國出張也、山崎迄十二日ニ着陣、即、我等モ爲見廻參、堀久大郎殿路次ヲ令同道候、即十二日ニ筑州ハ富田(攝津三島郡。眞宗の教行寺がある)ニ御在陣也、
[宗及茶湯日記他會記、天正十年六月十二日条]
六月十二日、羽柴筑前守(秀吉)は西国(毛利討伐)に出ていたが、十二日には羽柴軍の一部が山崎に着陣した。我等(津田宗及ら)もそれを見物に行った。堀久大郎(秀政、信長の近習)に道案内をしてもらった。十二日、筑州(秀吉)は富田(とんだ、大阪府高槻市)に在陣しているという。
十二日、葉(羽)柴藤吉既至攝州、猛勢ニテ上、家康既至安土著陳云々、如何可成行哉覧、惟日柴八幡・山崎ニ在之淀邊へ引退歟云々、依之今朝ハナラ中靜ル、
[多聞院日記、天正十年六月十二日条]
十二日、既に葉柴藤吉(羽柴藤吉郎、秀吉)勢は、攝州(摂津)に至ったという。猛烈な速さである。(徳川)家康は安土に着陣したという。どうなることであろうか。惟日(惟任日向守、光秀)勢は柴八幡(未詳、やわた、京都府八幡市付近のことかと思われる)・山崎(京都府乙訓郡)辺りに布陣していたが、淀(京都市伏見区)辺りまで引いたという、そのため今朝はナラ(奈良)中、胸を撫(な)で下ろした*。
* 前日十一日に、[順慶が切腹した][明智家臣の藤田伝五に切腹せよと迫られた]との噂が伝わり、ナラ(奈良)中驚き肝を冷やしたが、八幡(やわた、洞ヶ峠一帯)から明智勢が淀まで引いたということで、ひとまず胸を撫(な)で下ろしたことを指す。
天正十年六月十四日
三七郎、藤吉郎上洛之由候。
[天正十年夏記、天正十年六月十四日条]
三七郎(織田信孝)と藤吉郎(秀吉)が上洛した。
本能寺の変 ゆかりの地-山崎合戦古戦場-
山崎の戦い、またその後の諸勢はこちらをご覧下さい。