- 天正十年六月十三日
雨降、申刻至山崎表鐵放之音數刻不止、及一戰歟、果而自五條口落武者數輩敗北之体也、白川(山城愛宕郡)一条(乘)寺邊へ落行躰也、自路次一揆出合、或者討捕、或者剥取云々、自京都知來、於山崎表及合戰、日向守令敗軍、取入勝龍寺云々、討死等數輩不知數云々、天罰眼前之由流布了、落人至此表不來一人、堅指門數(マヽ)戸、於門内用心訖、
[兼見卿記(正本)、天正十年六月十三日条]
雨、申(午後四時頃)、山崎付近で鉄砲の音が数刻止まず、戦いが始まったか。果たして、五条口に敗北した(戦に敗れ傷付き疲れた)様子の落武者が数人。白川・一乗寺の方に落ちて行く様子だった。(落ち行く)途中、一揆(落武者を襲う一団)に出合い、或いは捕らえ、或いは略奪されたりしたという。京都(未詳)より知らせが届き、山崎での合戦で日向守(光秀)軍は敗北し、勝龍寺城(京都府長岡京市勝龍寺)に入るが、討死するものが数知れず、天罰であることは明らかだいう話が広まっている。こちら(吉田神社)には落人(おちうど)は一人も来ないが、堅く門を閉め、門内で用心する。
惟任日向守(光秀)於山崎ニテ合戦、即時敗北、伊勢守(伊勢貞興)已來(下)三十余人打死了、織田三七(信孝)殿・羽柴筑前守(秀吉)已下従南方上了、合戦也、二条屋敷(下御所)日向守、放火了、首共本能寺ニ被曝了、
[言経卿記一、天正十年六月十三日条]
光秀が山崎の合戦で敗北した。伊勢守(伊勢貞興)以下三十人ほど討死。織田信孝・羽柴秀吉以下南方(摂津)より(山城に)上り合戦となった。二条屋敷(二条御所、下御所)は光秀によって放火されていた。首は本能寺に晒された。
十三日ニ於山崎表かつせん(合戦)あり、惟日まけられ、勝龍寺(山城乙訓郡)へ被取入候、從城中夜中ニ被出候、於路次被相果候、首十四日ニ到來、本能寺 上様御座所ニ、惣之首共三千斗(ばかり)かけられ候、
[宗及茶湯日記他会記、天正十年六月十三日条]
十三日に、山崎付近で合戦があり、惟日(光秀)は敗北し、勝龍寺城(京都府長岡京市)に入った。夜に入り城を出たが、途中で果てた。首は十四日に、上様(信長)御座所(本能寺)に(届けられ)、三千程の首と共に晒された。
勝龍寺城落居了、則筑州令在京、惟日ハ坂本へ入退了示々、實歟、
[多聞院日記、天正十年六月十三日条]
勝龍寺城が落城した。筑州(秀吉)は京にあり、惟日(光秀)は坂本に退いたという、まことか?
天明に至って城(勝龍寺城)は降伏した。明智は城内にゐては安全でないと考へ、宵の口に主城坂本に向って逃げた。彼はほとんど単身で、世人の言ふところによれば少しく負傷してゐたが、坂本には到着せず、聖母の祝日にはどこか知れぬところに隠れてゐた。・・・隣むべき明智は隠れてゐて、坂本の城に連れ行かんことを農夫等に請ひ、黄金の棒を多く与ふることを約したが、彼等は刀と黄金を奪はんと欲し、槍で刺して彼を殺し、首を斬った。併し彼等はこの首を三七殿に呈することを敢てせず、他の人がこれを呈した。而してつぎの木曜日(六月十六日)にはその死骸を首と共に他の首のある所に運んだ。
[イエズス会日本年報(1582年追加)、天正十年六月十三日条]
明智は安土山において奪った信長の財宝を思ひのままに分配した後、引返して都より一レグワの鳥羽Tobaといふ所に行き、都より三レグワの距離にあり、信長の義兄弟の守護した勝竜寺Xorenziといふ重要な城を取った。同所で彼の味方に投ずる者を待ち、また羽柴殿がいかなる処置をなすか見んとしてゐた。彼は五畿内において最も智慮あり勇武なる大将であったが、その行ったところが極悪残酷であったため、事態は悪しき方に向ひ、好機会を逸したことが減亡の原因となった。その頃彼は八千乃至一万人を有したが、津の国の人々が味方に投ぜざるを見て、数カ所の城を囲まんと決心して高槻に向った。同国の重立った領主三人は、羽柴殿が余り遠くないと考へ、その兵を率ゐて山崎Iamazaquiと称する大なる村に進んだ。彼等の間に協定したところは、その時までジュストの大敵であった領主(茨木城主中川清秀)が彼と和を結んで山の手を進み、イケドノIquedono(池田信輝)と称する他の領主は同地方で定量の最も多い淀の大川に沿うて進め、ジュストは中央を進んで山崎の村に向かった。ジュストが村に入って、明智が甚だ近づいたと聞いて、急使を三レグワ余の後方(摂津国富田)にゐた羽柴殿に遺はし、なるべく急がんことを請ひ、己は少数ではあったが敵に向って突出せんと逸った手兵を抑制してゐた。ジュストは羽柴殿の軍隊の到着が遅れたるを見て、自ら行って危険を報ぜんとしたが、明智の軍が村の門を叩くまでに近づくに及んで、ジュストはこの上待つことを欲せず、勇将であった故デウスに信頼し、一千に達せぬ手兵のみを率ゐて、門を開き敵を攻撃した。キリシタン等は勇敢に戦ひ、死したる者は唯一人にすぎなかったが、最初の突撃で明智方の高貴なる者の首二百を敢った。それで明智の軍は勇気を失った。第一回の衝突が終って、ジュストの両側より進んで来た二人の殿が到着し、明智の兵は逃げ始めた。敵の勇気を最も多く挫いたのは、三七殿と羽柴殿が二万以上の兵を率いて同所より一レグワ足らずの所に在ることを聞いたことであった。併し彼等は疲労してゐたので到着することができなかった。
[イエズス会日本年報(1582年追加)、天正十年六月十三日条]
安土山においては、津の国において起った敗亡が聞えて、明智が同所に置いた守将(明智光春)は勇気を失ひ、急遽坂本に退いたが、あまり急いだため、安土には火を掛けなかった。併し主は信長栄華の記念を残さざるため、敵の見逃した広大たる建築のそのまま遺ることを許し給はず、附近にゐた信長の一子がいかなる理由によるか明でなく、智力の足らざるためであらうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、ついで市にもまた火をつけることを命じた。
[イエズス会日本年報(1582年追加)、天正十年六月十三日条]
安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日(六月十四日)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたことを見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。
[イエズス会日本年報(1582年追加)、天正十年六月十三日条]
光秀御坊カ塚ニ備五千余騎。已ニ欲駈出。比田帯刀取轡引入青龍寺。申ノ刻着到ニ不過千騎。夜更明智勝兵衛。進士作左衛門。村越三十郎。堀池與次郎。山本義入。三宅彌十郎随從シテ過伏見。小栗栖ニシテ當郷人鉾極運難遁落馬。各雖介錯絶入ヌ。無爲方討首投叢退散ス。五十五歳。
[豐臣記上、天正十年六月十三日条]
光秀は、御坊塚に五千余騎を配していて、已ニ欲駈出(未詳、[既に敗勢となっていたが敵方に向かって駆け出そうとしていた]か?)、比田帯刀(光秀の近習)は(逸る光秀をを抑え)轡を取って青龍寺(勝龍寺城、京都府長岡京市)に入った。申(午後四時頃)には千騎に過ぎなかった。夜になって(勝龍寺城を出て)、明智勝兵衛・進士作左衛門・村越三十郎・堀池與次郎・山本義入・三宅彌十郎を従えて伏見を過ぎ、小栗栖で近在の落武者狩りの者に槍で突かれて落馬した。各(未詳、[付き従って来た者]か)介錯され絶命した。なすすべもなく首を藪の中に投げ入れて退散した。(光秀)五十五歳。