- 天正十年六月二日
さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、くびハうちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。かやばかりつり候て、人なく候つる。
くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、のぶながさまとハ不存候。其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。
[本城惣右衛門自筆覚書]
恐らく北門から入った(と思われる三宅)弥平次殿と母衣衆の二人が、[首は捨てろ]とおっしゃるので、堂の下に投げ入れ、本堂に入りましたが、広間には誰もいませんでした。蚊帳が吊ってあるばかりで、人はおりません。
庫裏の方に、下げ髪の白い着物を着た女がおりまして、この女を捕らえましたが、侍は一人もおりませんでした。(その女は)[上様は白い着物をお召しです]と言うのですが、(それが)信長様のことだとは知りませんでした。その女を斎藤(利三)内蔵介殿に渡しました。
信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出(しで)し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。・・・信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃(つる)切れ、其の後、御鎗(やり)にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中奥深入り給い、内よりも御納戸の口を引き立て、無情に御腹を召され、
[信長公記、天正十年六月一日条]
信長の宿所である本能寺を取り巻き、(明智)勢衆が四方より乱れこんだ。信長も小姓衆も、当座は下々の者が騒いでいるのだろうと考えたが、そうではなく、ときの声を上げて本能寺へ鉄砲を撃ち掛けた。これは謀反か、誰の仕業か、と信長が問うたところ、森乱丸は、明智の者と思われますと申し上げた。それを聞いた信長は[是非に及ばず]とのことだった。・・・信長は、初め、弓を取り二三本を放ったが、何れも時刻到来候て(未詳)、弓の弦が切れ、その後、槍で戦ったが、肘に槍傷を受け、引き退き、周りに付き添っていた女性に、心配するな、急いで逃げろ、とおっしゃられ、女性を追い出した。既に御殿には火が掛けられ、火が迫ってきて、このような姿を他に見られまいとされたのであらろうか、殿中深くに引き、内側から戸を閉め、切腹されたという。
都に入る前に兵士たちに対し、彼はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃にセルペ(serpe、火気の部品の名称)を置いたまま待機しているようにと命じた(火縄銃に点火して引金に挟んだ状態で発射の命令を待たせたことを指す)。それはすでに述べたように一五八二年六月二十日(一日の誤り)、水曜日のことであった。兵士たちはかような動きが一体何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づき、その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達するや、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。
[回想の織田信長]
宮殿(本能寺)の前で騒が起り、(中略)その後銃声が聞え、火が上った。つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た。明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。同所ではかくの如き謀叛を嫌疑せず、抵抗する者がなかったため、内部に入って信長が手と顔を洗ひ終って手拭で清めてゐたのを見た。而してその背に矢を放った。信長はこの矢を抜いて薙刀Nanginata、すなはち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に弾創を受けてその室に入り戸を閉ぢた。或人は彼が切腹したと言ひ、他の人達は宮殿に火を放って死んだと言ふ。併し我等の知り得たところは、諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰したことである。
[イエズス会日本年報]
早天自丹州惟任日向守(光秀)、信長之御屋敷本應(能)寺へ取懸、即時信長生害、同三位中將(織田信忠)陣所妙見(覺)寺ヘ取懸、三位中將二条之御殿(誠仁)親王御方御座也、此御所ヘ引入、即以諸勢押入、三位中將生害、村井親子三人(貞勝・清次・貞成)、諸馬廻等數輩、討死不知數、最中親王御方・宮・館女中被出御殿、上ノ御所へ御成、新在家之邊ヨリ、紹巴(里村)荷輿ヲ參セ、御乘輿云々、本應寺・二條御殿等放火、洛中・洛外驚騒畢、悉打果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乘馬罷出、惟日對面、在所之儀萬端頼入之由申畢、
[兼見卿記(別本)、天正十年六月四日条]
早朝、光秀は丹波(亀山)より信長の宿所である本能寺を襲い、信長を斃(たお)した。信忠(信長の長男)の宿所である妙覚寺を襲った。信忠は、(隣の)二条之御殿(誠仁親王の屋敷、下御所)に移った。明智勢が押し入り信忠や村井親子(京都所司代)や馬廻(うままわり、主君の乗った馬の周囲にあって警護を担当する騎馬の侍)など、討死したものは数知れない。その最中、誠仁親王や身の回りの者は屋敷を出、上御所(父正親町天皇の屋敷)に移った。新在家から紹巴が移動するための輿を以って参じ、それに乗ったという。本能寺や二条御所は放火され、洛中洛外驚き大騒ぎになった。明智勢は(信長らを)悉く討ち果たし、未(午後二時頃)には粟田口から(安土に向かって)大津街道を下った。予(吉田兼見)は馬で粟田口まで出向き、光秀と対面し、在所(吉田郷、吉田神社の神領地)については宜しくお願いしたいと申し入れた。
二日早々於京都本能寺信長御生害云々、子細者惟任日向守爲謀反未明仁四方ヲ取廻押寄、其巧ハ今度西國立御暇乞申と云テ人數ヲ可懸御目由謀略ヲ企、俄ニ人數ヲ召集メ可罷立結構ト云々、
[蓮成院記録、天正十年六月二日条]
二日早々に京都本能寺に於いて信長が殺害されたという。惟任日向守(光秀)が謀反を企て、未明に本能寺の四方を取り囲み押し入った。その巧妙なところは、信長を倒すことを企て、西国(秀吉が毛利攻めをしている備中)に向かうためと称して兵を集め、信長に出陣の挨拶をするためと称して本能寺に向かい、突然信長を襲う、ということであったという。
信長の宮廷に名を明智Aquechiといふ賤しい生れの人があった。彼は信長の治世の初めには一貴族の家来であったが、その努力と智慮とにより大いに用ひらるるに至った。彼は諸人に喜ばれず、叛逆を好み、残酷なる処罰を行ひ、戦争に巧妙で策略に富み、心勇猛で築城術に達してゐた。それで、賤しき歩卒であったが、信長は後に丹波Tamba、丹後Tangoの二国を領せしめ、また比叡山の大学の全収入をも与ヘた。この収入は他の一国の半に超えた。併し明智は恐るべき人で、更に進んで日本王国の主となるを得ざるか試みんと欲した。この際信長は三万人を率ゐて羽柴殿を助け、毛利を亡ぼすことを彼に命じた。彼は信長ならびに世子が共に都に在り、兵を多く随へてゐないのを見て、これを殺す好機会と考へ、その計画を実行せんと決心した。明智はその兵を当地より五レグワの丹波国の一城(亀山城)に集めた。兵士は皆戦場に赴く道に当らないのを見て驚いたが、彼は賢明で何人にもその決心を告げなかったので、かくの如き大胆なる計画に考へ及ぶ者は一人もなかった。聖体の祝日の次週の火曜日(一五八二年六月十九日すなわち天正十年五月二十九日)軍隊が城内に集った時、彼は四人の部将を招いて、密に信長とその子を殺して天下の主とならんと決心したことを告げたところ、彼等は皆驚いたが、彼がすでに決心した以上、これを援けてその目的を達するほかはないと答へた。
[イエズス会日本年報(1582年追加)、天正十年六月二日条]
- 天正十年六月十二日
日向守敵歟、自山崎(山城乙訓郡)令出勢、於勝龍寺(山城乙訓郡)西足軽出合、在(有)鉄放軍、此近邊放火、(〇以下記サズ)
[兼見卿記(別本)、天正十年六月十二日条]
光秀の敵方か、軍勢が山崎より寄せて来た、勝龍寺(京都府長岡京市)の西方で(羽柴軍の)足軽と出合った。(その中に)鉄砲隊がおり、辺りに火を放った。(別本には十二日以降がない、校訂者による注記)
自攝州山崎表へ出足軽、勝龍寺之西ノ在所放火、此義ニ近可衆驚、止普請各皈在所、
[兼見卿記(正本)、天正十年六月十二日条]
摂津から山崎へ足軽が寄せて来て、勝龍寺の西方で放火を働いた、近くにいた人はこれに驚き、(陣地の?)普請を中止し、それぞれの在所に帰った、
十二日 天晴。世上さうせつ。のけ物小屋かけ同前也。
[天正十年夏記、天正十年六月七日条]
世間は騒(ざわ)ついている(さうせつ、騒屑)。のけ物(未詳、難を避けようと御所に逃げ込んだ人たち?)小屋かけ(未詳、難を避けようと御所に逃げ込んだ人たちが建てた小屋?)は相変わらずである。
十二日、葉(羽)柴藤吉既至攝州、猛勢ニテ上、家康既至安土著陳云々、如何可成行哉覧、惟日柴八幡・山崎ニ在之淀邊へ引退歟云々、依之今朝ハナラ中靜ル、
[多聞院日記、天正十年六月十二日条]
十二日、既に葉柴藤吉(羽柴藤吉郎、秀吉)勢は、攝州(摂津)に至ったという。猛烈な速さである。(徳川)家康は安土に着陣したという*。どうなることであろうか。惟日(惟任日向守、光秀)勢は柴八幡(未詳、やわた、京都府八幡市付近のことかと思われる)・山崎(京都府乙訓郡)辺りに布陣していたが、淀(京都市伏見区)辺りまで引いたという、そのため今朝はナラ(奈良)中、胸を撫(な)で下ろした**。
* [多聞院日記]の記述の一部には、伝聞・風聞によるものがあり、ここで[家康既至安土著陳]とあるのも、その一つと考えられます。
[家忠日記]の天正十年六月四日条に、[家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、(家康一行は伊勢を退き(海路)大浜(現愛知県碧南市辺り)に着いた、町まで迎えに出た)]とあります。
** 前日十一日に、[順慶が切腹した][明智家臣の藤田伝五に切腹せよと迫られた]との噂が伝わり、ナラ(奈良)中驚き肝を冷やしたが、八幡(やわた、洞ヶ峠一帯)から明智勢が淀まで引いたということで、ひとまず胸を撫(な)で下ろしたことを指すと思われます。
昨日於郡山國中与力相寄血判起請在之、堅固ニ相拘了、
[多聞院日記、天正十年六月十二日条]
昨日、郡山国中(大和国)の与力(筒井家に属する武将)が寄り集まり、起請文(神仏に祈願する形をとって誓いや約束を記した文書)に血判し、(違背ないことを)堅く誓い合った。
先懸衆小坂表取懸七兵衛殿御生害云々、此ハ惟任御縁邊在之故歟、謀反御存知歟、不審云々、
[蓮成院記録、天正十年六月十二日条]
先懸衆(未詳)が小坂表([大坂]の誤りかと思われる)に取り掛かり、七兵衛殿(織田信澄)を殺害*したという。これは信澄が惟任(光秀)と縁故関係(女婿)であったため、光秀の謀反を知っていたと疑われたからか。
* 織田信澄が、織田信孝と丹羽長秀により殺害されたのは、六月五日。
六月十二日ニ羽柴筑前守殿從西國出張也、山崎迄十二日ニ着陣、即、我等モ爲見廻參、堀久大郎殿路次ヲ令同道候、即十二日ニ筑州ハ富田(攝津三島郡。眞宗の教行寺がある)ニ御在陣也、
[宗及茶湯日記他會記、天正十年六月十二日条]
六月十二日、羽柴筑前守(秀吉)は西国(備中、毛利討伐のため)に出ていたが、十二日には羽柴軍の一部が山崎に着陣した。我等(津田宗及ら)もそれを見物に行った。堀久大郎(秀政、信長の近習)に道案内をしてもらった。十二日、筑州(秀吉)は富田(とんだ、大阪府高槻市)に在陣したという。