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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][現本能寺]
天正十年六月二日、本能寺の変、明智勢、本能寺に織田信長を斃す-本能寺-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
本能寺の変 ゆかりの地-本能寺-
地名・史跡名 本能寺
現本能寺正門
撮影場所(Google マップ)
御池通(三条坊門小路)から寺町通(東京極大路)に南に折れてすぐ左手に、現在の本能寺正門があります。
[本能寺文書]
の永禄十一年九月四日付書状によれば、変当時は[六角より四条坊門(蛸薬師通)、油小路より西洞院の一町四方]にありましたが、その後、この地に移りました。
始在
二
三條坊門西洞院
一
織田信長公寓
二
斯寺
一
爲
二
明智光秀
一
被
レ
弑時一旦爲
二
焦土
一
其後移
二
今處
一
堂前有
二
信長公之塔、
[雍州府志]
始め三條坊門西洞院にあり、信長が宿所としていたところを、明智光秀に(襲われて)殺され、一旦は焦土となったが、その後、ここに移った、堂前に信長の塔がある
現本能寺正門石柱
撮影場所(Google マップ)
正門左に、この石柱があります。
銘は[大本山本能寺]ですが、よく見ると[能]の字の[ヒヒ]が[去]に似た形になっています。
これは、[本能寺は五度も火災に遭遇したことから今度こそ火災(ヒ=火)に遭うことがないように]との願いを込めたものということです。(
法華宗大本山 本能寺
)
本能寺の公式サイトに、
1415年、日隆聖人が、油小路高辻と五条坊門の間の地に寺門を開き本応寺と号した
1418年、月明上人の命により妙本寺の教徒によって破却される
1429年、小袖屋宗句の援助により内野(現在の西陣あたり)に本応寺を再建
1433年、如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立
1536年、天文法乱にて延暦寺の焼き討ちに遭う
1545年、日承聖人が四条西洞院に建立
1582年、本能寺の変で焼失
1592年、秀吉の命にて現在地に移転
1788年、天明火災で焼失
1840年、日恩聖人による再建
1864年、蛤御門の変にて焼失
とあります。(抜粋)
現本能寺本堂
撮影場所(Google マップ)
正門をくぐって宝物殿を過ぎると、正面に本堂があります。
桁行7間(約25m)、梁行7間の大きな本堂です。
現本能寺信長公廟
撮影場所(Google マップ)
本堂右手を進むと、信長公廟があります。
現本能寺信長公廟由緒書
撮影場所(Google マップ)
信長公廟の右に由緒書があります。これには、
信長公廟
信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正十年(一五八二)六月二日早朝のことだった。本能寺の変である。そのころの当寺は四条西洞院にあり四町四面の広大な寺域、周囲に堀と土塁、その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎を備えるという、城郭構えになっていて、信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。この大伽藍が烏有に帰し、光秀の天下もわずか十数日で終ったあと、信長の三男信孝は信長らの燼骨収集の作業をすすめ、本能寺の変から一箇月後の七月三日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた、この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである。此の御廟には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている。
當山識
[本能寺文書]には、
下京六角与四条坊門、油小路西洞院中間方四町々事、雖
レ
為
二
沢村千松私領
一
相
二
副ヘ本証文数通
一
売渡候分明也、
[本能寺文書、永禄十一年九月四日付書状]
六角より四条坊門(蛸薬師通)、油小路より西洞院の一町四方、沢村千松の所有地であるところを(本能寺に)売り渡したこと、証文数通をもって間違いないこと証する。
の[四町々事]を[四町四面]としたのでしょうか?
[四町四面]を[四面各々四町]の意味であれば誤りで、[六角与四条坊門、油小路西洞院中間方四町々事]とありますから、[南北は六角通から蛸薬師通(四条坊門)まで、東西は油小路通から西洞院通までのそれぞれ一町]の意味、つまり[四周四町、一町四方]という意味です。
現本能寺信長公墓石
撮影場所(Google マップ)
信長公廟の裏手に、信長公の墓石があります。
何と彫ってあるのか読めませんでした。
現本能寺信長公卒塔婆
撮影場所(Google マップ)
墓石の後ろに卒塔婆があります。
信長の法名[總見院殿贈大相国一品□巌尊□]が書かれています(□は多分[泰]と[儀]ではないかと思います)。