宝積寺
宗派 真言宗智山派
開基 行基
文化財 (重文)神像・倶生神坐像・闇黒童子坐像・閻魔王坐像・木造司録坐像・木造司命坐像・十一面観音立像・金剛力士立像・三重塔
一般には宝寺の名で知られており、本町に現存する寺院の中で最も古い歴史を誇る。
寺伝によると奈良時代に聖武天皇の勅願寺として僧行基が開創したと伝え、その後、長徳年間(九九五~九九九)寂照が中興し、室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり寺運は大いに盛りあがった。さらに嘉慶三年には定額寺にも列し、多くの子院をもつに至る。
戦国時代の終り、山崎合戦の折には羽柴秀吉が一時当寺を陣所とし、合戦後宝寺も山崎城の一部として利用されたと伝えられる。
しかし、幕末の動乱は宝寺にもおしよせ、元治元年(一八六四)の兵火と廃仏毀釈で寺運はすっかり衰微したがじょじょに寺観、寺域も復興され今日にいたった。現在、乙訓地方で最も多くの文化財を保有する寺院で、見るべき仏像が多くある。
昭和六十一年三月
大山崎町教育委員会
とあります。