前田 利家 [まえだ としいえ]
- 天文7(1538)-慶長4(1599).閏3.3
- 信長に仕え、桶狭間の戦いを始めとして功を立て、天正3(1575)年、越前府中城主となる。
- 後、柴田勝家の寄騎となり、越前の一向一揆・越後の上杉氏に対する備えに当たる。
- [賎ケ岳]では、秀吉方に加わり、秀吉の死後は秀頼の補佐役を勤める。豊臣政権下で五大老の一人。(秀吉と交誼を結び、互いに娘を送り合うなど、深い関係にあり、秀吉の死後も、豊臣家の存続に力を注いだ)
前波 弥五郎 [まえば やごろう]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
牧村 利貞・長兵衛、兵部 [まきむら としさだ・ちょうべい、ひょうぶ]
- 天文13(1544)-文禄2(1593)
- 利休七哲の一
松井 甚介・康之 [まつい じんすけ・やすゆき]
- 天文19(1550)-慶長17(1612)
- 細川家の家臣
- 初め将軍足利義輝に仕えるが、永禄8(1565)年、義輝が殺害された後は細川藤孝のもとに寄寓。信長の中国攻めに藤孝と共に加わり丹後平定に尽力。
- 天正7(1579)年、丹後国内で1万3千石を領有。後、秀吉のもとで小田原攻め、朝鮮派兵にも参陣して軍功を挙げる。
- 慶長4(1599)年、豊後杵築に移り、関ケ原合戦では徳川方に属し同城を守備。[信長襲殺]
松井 友閑、宮内法印 [まつい ゆうかん、くないほういん]
- 信長の右筆、堺の政所
- 信長が正倉院の蘭奢待を拝受した時、奉行を勤める。
- 天正10(1582)年5月19日、家康ために催された能舞の会に列席、後、堺に戻り家康接待の準備、同6月1日、家康を迎えた。
- 後、秀吉に仕えるが、天正14(1586)年、堺の政所を罷免された。[信長襲殺]
松平 家忠 [まつだいら いえただ]
松平 元康 [まつだいら もとやす] =徳川家康
松田 政近・太郎左衛門 [まつだ まさちか・たろうざえもん]
- 丹波の豪族、光秀の家臣
- [山崎]では、山手(右翼)を担当する。
松永 久秀 [まつなが ひさひで]
- 1510-天正5(1577)
- 足利幕府の管領細川氏の執事三好長慶の家老、大和信貴山城主
- 長慶の死後、後継の義継が幼少であったことに乗じて、その実権を握り、三好三人衆らと共に将軍足利義輝を殺害し、弟一乗院覚慶を幽閉するなど専横を極めた。
- 筒井順慶・三好三人衆と奈良に戦って東大寺大仏殿を焼き、畿内を支配したが、永禄11(1568)年、入京した信長に降伏。
- 天正5(1577)年8月、石山本願寺攻囲中だった久秀は、突然信貴山城に立て籠もって、信長に背いたが敗死。(名器といわれた茶釜平蜘蛛を、信長に渡すまいと打ち砕き、火薬を抱え爆死したと伝えられる)
松野 平介 [まつの へいすけ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
松本 為足 [まつもと ためたり]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
万里小路 充房 [までのこうじ みちふさ]
- 永禄5(1562)-寛永3(1626)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
丸毛 長照、兵庫頭 [まるも ながてる、ひょうごのかみ]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
水野 九蔵 [みずの きゅうぞう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
水野 宗介 [みずの そうすけ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
水野 宗兵衛 [みずの そうべい]
溝尾 庄兵衛・茂朝 [みぞお しょうべい・しげとも]
- ?-天正10(1582)
- 光秀の家臣
- 岐阜県可児市広見の出身[明智光秀(小和田)]で、光秀が信長に仕官する以前からの家臣。
- 天正10(1582)年5月、光秀に従って家康の接待役を務めた。
- [変]後、勝竜寺城を守備する。
- [山崎]では、光秀と共に退却。山科小栗栖で光秀が刺されると、介錯し、首を薮の中に隠して、坂本へ退却。[明智高柳]
- [変]後、明智秀満と共に、坂本城で殉死。
水無瀬 兼成 [みなせ かねなり]
- 永正11(1514)-慶長7(1602)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
蓑浦 次郎右衛門 [みのうら じろうえもん]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
三淵 藤英 [みぶち ふじえい]
御牧 兼顕 [みまき かねあき]
- 元室町幕府の奉公衆、光秀の家臣
- [変]後、勝竜寺城を守備し、[山崎]では、本隊右翼に陣する。
御牧 景重・三左衛門 [みまき かげしげ・さんざえもん]
- ?-天正10(1582)
- 元室町幕府の奉公衆、光秀の家臣
- [山崎]では、味方が総崩れになると、光秀に勝龍寺へ退却することを進言し、自らは敵中に駆け入って討死した。[明智光秀のすべて]
三宅 藤兵衛 [みやけ とうべい]
三宅 秀朝 [みやけ ひでとも]
三宅 弥兵次 [みやけ やへいじ] =明智 秀満
宮田 彦次郎 [みやた ひこじろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
三好 長慶 [みよし ながよし]
- 大永2(1522)-永禄7(1564)
- 天文18(1549)年、同族の三好政長討ち、京を追われていた室町十三代将軍足利義輝と和して、御供衆に加わる。
- 天文22(1553)年8月、増長した長慶の追放に立った義輝を、逆に近江朽木へ追い、将軍なき京を支配した。
三好 康長・笑岩 [みよし やすなが・しょうがん]
- 天正2(1574)年4月2日、本願寺顕如の挙兵に呼応し、河内高屋城に籠って信長に対抗するが、翌天正3(1575)年4月19日、光秀等に攻められ降伏する。
村井 清次 [むらい きよつぐ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
村井 貞勝・春長軒、長門 [むらい さだかつ・しゅんちょうけん、ながと]
- 京都所司代
- 天正10(1582)年5月29日、信長に従い本能寺に逗留、申次を務める。
- [変]を知り、織田信忠のいた妙覚寺に向かい、信忠を二条御所に移るよう進言する。
- 光秀軍に襲撃され、二条御所で討死。
村井 貞成 [むらい さだなり]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
村井 新右衛門 [むらい しんえもん]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
村瀬 虎 [むらせ とら]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
村田 吉五 [むらた きちご]
- 信長の御番衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
毛利 岩 [もうり いわ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
毛利 輝元 [もうり てるもと]
- 天文22(1553)-寛永2(1625).4.27
- 隆元(元就の長男)の子
- 永禄6(1563)年、元就の長男隆元は元就に先立って没したため、11歳で毛利家を継ぎ、叔父の吉川元春・小早川隆景と共に山陽・山陰を版図に加えた。
- 天正4(1576)年2月、京を追われ毛利を頼って備後鞆(とも)に移った足利義昭の要請に応え、本願寺や上杉らの有力大名と結び、同年7月、信長の攻撃を受けた石山本願寺に兵糧を入れるため大船を催し、木津川で織田水軍を破る。
- 天正10(1582)年6月、備中高松城を攻めた秀吉と和睦、後、秀吉に属し、豊臣政権下では五大老の一人となる。
- 関ケ原の合戦では、秀頼方の盟主となるが、同じ豊臣政権下で五大老の一人であった家康に敗れた。
毛利 良勝 [もうり よしかつ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
森 二郎左衛門 [もり じろうざえもん]
- 信長の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
森 忠政・千丸 [もり ただまさ・せんまる]
森 長氏・力丸 [もり ながうじ・りきまる]
- 永禄10(1567)-天正10(1582).6.2
- 森可成の五男/信長の小姓
森 長定・成利・乱丸 [もり ながさだ・なりとし・らんまる]
- 永禄8(1565)-天正10(1582).6.2
- 森可成の三男/信長の小姓
- 信長に近侍し、その才を認められて重用される。
- 天正9(1581)年、近江で5百石、翌天正10(1582)年3月29日、甲斐平定に従い、その功により美濃岩村城5万石などを与えられる。
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
森 長隆・坊丸 [もり ながたか・ぼうまる]
- 永禄9(1566)-天正10(1582).6.2
- 森可成の四男。信長の小姓
森 長可・勝蔵、武蔵 [もり ながよし・かつぞう、むさし]
- 永禄元(1558)-天正12(1584).4
- 森可成の次男
- 天正10(1582)年3月29日、甲斐征討戦の団平八らと先遣隊として勤めた功績により信濃国高井・水内・更科・埴科を与えられる。
- 天正12(1584)天正12年4月、長久手で織田信雄・徳川軍との戦闘中に銃弾を受けて戦死する。
森 可成 [もり よしなり]