赤座七郎右衛門 [あかざ しちろうえもん]
- ?-天正10(1582).6.2
- 信長、次いで信忠に仕える。
- 永禄12(1569)年正月、三好三人衆が六条本圀寺の足利義昭を攻めたが、この時明智光秀らと共に本圀寺を守備していた。[信長公記(桑田)]
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。[信長公記(桑田)]
茜屋宗佐・宗左 [あかねや そうすけ]
明智定頼・自然丸・十二郎 [あけち さだより・じねんまる・じゅうにろう]
- ?-天正10(1582).6.2
- 光秀の次男
- [変]後、明智秀満と共に、坂本城で殉死。
明智次右衛門・治右衛門 [あけち じえもん] =明智光忠
明智茂朝 [あけち しげとも] =溝尾庄兵衛
明智秀満・左馬助・弥兵次・光春? [あけち ひでみつ・さまのすけ・やへいじ・みつはる?]
- ?-天正10(1582).6.15
- 光秀の女婿、旧姓三宅
- 一書ニ光春ハ元濃州の産、塗師の子也、幼少之時容顔勝れ侯故、光秀の寵童と成、三宅弥平次と云、才勇尋常にこへ候得ハ、後に聟とせられ、明智左馬助光春と号し、一の老臣として福智山の城主と成、忠興君御咄しに、光春ハ実は塗師の中にても五器塗師の子なれとも希代の者なりしと被仰侯也と云々、
三宅家記に、左馬助親三宅出雲と申者、天正之比丹波亀山の城ニ居申候、光秀之従類也、其子弥平次光春ハ光秀の甥にて一本ニ弥手次光昌と有、光秀の養子となるとあり、後に家名を改、明智左馬助と号、日向守の聟なりと云々、[綿考輯録 第二巻 巻九]
- 光秀の(初め荒木村重の子村安に嫁し村重謀反後に離縁された)娘と結婚、三宅から明智に改姓。
- 明智左馬助に嫁せられ侯光秀の息女ハ(織田信澄の室の妹、秀林院様の御姉)、初荒木村重の息新五郎村安ニ嫁娶也、村重反逆之砌離縁有之、[綿考輯録 第二巻 巻九]
- 光秀の丹波攻略に従い、天正9(1581)年、福知山城代となる。
- [変]に先立って、光秀から信長弑逆の決意を披瀝されたという。[信長公記(桑田)]
- [変]に際しては先鋒として本能寺を焼き討ちする。
- [変]後、安土城に入って近江一円の掌握に当たるが、[山崎]の敗報に接して近江坂本城に移る。(退却の際に、堀秀政の軍と遭遇し、打出浜(大津市)から馬を湖水に乗り入れ渡り切ったという逸話が[左馬助湖水渡り]として残っている。『川角太閤記』)
- 天正10(1582)年6月15日、堀秀政らに包囲され、自ら城に火を放ち、妻や光秀の妻子を刺して自刃。(自刃の直前、名刀や茶器などの目録を整理し、引き渡したという逸話が残っている。名器平蜘蛛を抱いて爆死したという松永久秀と比較される)
- 左馬介は安土ニ在て城を焼、路次の敵を切ぬけて坂本の城に入、同廿四日光秀の内室子息を殺して其身も自殺、生年四十六歳、光秀の聟なり(光春室ハ秀林院様の御姉也、初荒木村安ニ被嫁候)、[綿考輯録 第二巻 巻九]
明智光國 [あけち みつくに]
- 『続群書類従(土岐系図)』に光秀の父とされるが不明。[明智光秀(小和田)]
明智光隆 [あけち みつたか]
- 『続群書類従(明智系図)』『鈴木叢書(明智系図)』に光秀の父とされるが不明。[明智光秀(小和田)]
明智光忠・次右衛門・治右衛門 [あけち みつただ、じえもん]
- 天文9(1540)?-天正10(1582).6
- 光秀の叔父光久の子
- 天正3(1575)年、丹波過部城攻撃では、信長から戦功を認められ感状を下賜されている。
- [変]に先立って、光秀から信長弑逆の決意を披瀝されたという。[信長公記(桑田)]
- [変]に際しては二条御所を襲撃、銃弾を受け負傷。知恩院で治療していたが、[山崎]で光秀が死んだことを聞き自殺。[明智光秀のすべて]
明智光綱 [あけち みつつな]
- 『明智軍記』『系図纂要(明智系図)』『明智氏一族宮城家相伝系図書』に光秀の父とされるが不明。『明智氏一族宮城家相伝系図書』によれば[本名光隆]とあり。[明智光秀(小和田)]
明智光秀・十兵衛、惟任・日向 [あけち みつひで・じゅうべい、これとう・ひゅうが]
- ?-天正10(1582).6.13
- 信長に仕えるまでの光秀の出自については、良質の史料がなく、殆ど明らかでない。
- 一乗谷の朝倉氏に身を寄せていた光秀は、幕府の再興を実現するために朝倉氏を頼って一乗谷に移った足利義昭に対し、信長の力を借りるよう説き、自ら仲介役を務めることになった。朝倉を辞し一乗谷を出た光秀は信長に仕え、永禄11(1568)年7月27日、義昭・信長の対面を実現させる、とされる。
- 永禄11(1568)年9月、信長上洛後、義昭との関係によって、主として朝廷との交渉など京都の庶政に関与する。
- 元亀2(1571)年、近江滋賀郡を与えられ坂本城主になり、越前・河内などを転戦した後、天正3(1575)年6月、丹波攻略を任せられる。
- 天正3(1575)年7月、信長の奏請により、鎮西の名族惟任の姓を受け、従五位下・日向守となる。
- 天正7(1579)年、丹波・丹後をほぼ平定し、天正8(1580)年8月、丹波を領国として与えられる。この活躍は、信長が佐久間信盛親子に与えた折檻状の中で、[天下の面目をほどこし候]と第一に挙げて賞賛された。
- 天正9(1581)年2月、京都で行われた[御馬揃]の奉行を務める。
- 天正10(1582)年3月、甲斐征討戦に従軍。この戦功により駿河を与えられた家康が、安土に伺候した際の接待役を命じられる。この接待の最中に、中国にあって毛利氏と対峙していた秀吉から、信長に来援を求める使者が到着、即刻、中国出陣を命じられる。
- 天正10(1582)年6月1日夜、丹波亀山を発した光秀は、突如京に入り、本能寺に宿泊していた信長を襲った。信長は自殺、次いで二条御所の織田信忠も攻めて自刃させる。
- 後、近江一帯を制圧し、[変]を知って東上した秀吉と、山崎で激突。激戦の末、光秀軍は敗れ、坂本を目指して退却する途中の小栗栖で、土民に襲われ死亡。
- ([変]後、光秀は与力衆であった細川藤孝・筒井順慶などに与同を求めるが、ことごとく断られた。それに較べて、[主君の仇を討つ]という大義を掲げた秀吉には、多くの武将が参集した。(短命であったため[光秀の三日天下]と呼ばれる)
- 丹波國惟任日向守。以御朱印一國被下行。時に理運被申付候。前代未聞大將也。坂本城主志賀郡主也。多喜郡高城波田野兄弟。扱にて被送刻。於路次からめとり。安土へ馬上にからみつけつゝをさしほだしをうち。はたのおとゝい。はたのものに被上候。前代未聞也。
美濃國住人ときの隨分衆也
明智十兵衛尉
其後從上様被仰出
惟任日向守になる
名譽之大將也。弓取はせんじてのむへき事侯。[立入左京亮入道隆佐記]
- 信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の屋敷の一貴人兵部太輔(細川藤孝)と称する人に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼は余所(よそ)者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らは(そうではないと装う)必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。また、友人たちの間にあっては、彼は人を歎くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略(という手段を弄すること)に精通してはいない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二カ国の王に取り立て、彼(信長)がすでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入-それは(別の)国の半ぽ以上の収入に相当した-とともに彼に与えるに至った。そして明智は、都から四レーグアほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五レーグアもあるかの大湖(琵琶湖)の辺りにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。[回想の織田信長]
- (六月)十三日、一戦に討負、信長を弑して十五日も過さるに土民の為に死せられ侯、生年五十七歳也、[綿考輯録 第二巻 巻九]
- 惟任日向守醍醐邊ニ{牢、空-工+牛}籠、則郷人一揆ト{夕-厂}打之、[言経卿記一]
- 光秀の京の屋敷は二条。[戦史ドキュメント 本能寺の変]
明智光安 [あけち みつやす]
- 光秀の父光綱の弟
- 弘治2(1556)年4月、美濃領主の斎藤道三が後継問題から子義龍に攻撃された際、道三の家臣であった光安は明智城(長山城)に籠るが、義龍の攻撃を受けて討ち死。
- この際、城中にいた光秀、光安の子光春、光安の弟の子光忠らを城から逃れるよう説得し、明智家の再興を託したとされる。『明智軍記』
明智光慶・十五郎 [あけち みつよし・じゅごろう]
- 光秀の長子?
- 天正10(1582)年5月27日に張行された、いわゆる[愛宕百韻]で結句を詠んだ。
- [変]当時、亀山城にあったが、高山重友・中川清秀らの攻撃を受け死亡。
浅井清蔵 [あさい せいぞう]
浅井長政 [あざい ながまさ]
- 天文14(1545)-天正元(1573)
- 下野守久政の子
- 元近江守護京極家の家臣で、近江北三郡(伊香・浅井・坂田)を中心に勢力を誇っていた。
- 一時は、信長の妹お市を娶り、信長と結んで南近江守護の六角氏を圧倒したが、信長が朝倉氏を攻めると、旧来の誼を重んじる父久政の意見を容れ、朝倉に加勢する。
- しかし、信長の浅井・朝倉攻めによって、天正元(1573)年8月、妻お市と離縁し三人の子供を逃がした後、小谷城で自刃する。
朝倉義景 [あさくら よしかげ]
- 天文2(1533)-天正元(1573)
- 越前守護
- 永禄9(1566)年、上洛に執念を燃やす足利義秋が朝倉氏を頼って来たが、動かず、当時義景の許にあった光秀の斡旋で、義秋は信長を頼ることになり、一乗谷を去った。
- 後、再三にわたる義昭からの後援依頼に応え、浅井長政らと共に信長に対抗するが、信長の浅井・朝倉攻めによって、天正元(1573)年8月、滅びた。
浅野長政 [あさの ながまさ]
- 天文16(1547)-慶長16(1611).4.7
- 安井重継の長子、後浅野長勝の養子
- [賤ケ岳]の功により大津・坂本2万3千石を与えられる。
- 秀吉の下で、甲府を居城とし、このころから主として実務面を担当するようになり、秀吉の補佐役を務めた。
- 秀吉が没した後は家康に接近し、関ケ原の戦いでは徳川秀忠軍に加わり、嫡男幸長は先鋒の一角として徳川方の主力として活躍した。
足利義昭・義秋・一乗院覚慶 [あしかが よしあき・いちじょういん かくけい]
- 天文6(1537)-慶長2(1597)
- 室町十五代将軍、室町幕府最後の将軍
- 室町十二代将軍義晴の次男で、初め興福寺一乗院門跡で覚慶と名乗っていた。
- 永禄8(1565)年、将軍であった兄義輝が松永久秀に殺害されると、細川藤孝らに救出されて近江に逃れ、各地の大名に京都奪回を依頼している。
- 永禄9(1566)年2月、還俗し義秋と改名する。後に、義昭に改名。
- 永禄11(1568)年10月18日、光秀の仲介により信長の後援を得て室町十五代将軍に就くが、事実上信長の傀儡であった。このため、実権回復を目指すが、この動きを信長に咎められ、天正元(1573)年、京都を追われた。
- その後も、各地に傲を飛ばして再起を試みるが、天正元(1573)年7月、山城国槇島に拠り挙兵して惨敗、若江城に退き、更に毛利氏を頼って備後鞆(とも)へ移る。[変]時も同地にあった。
- 天正16(1588)年1月、秀吉の勧めで京へ戻り出家、昌山と号した。
飛鳥井雅継 [あすかい まさつぐ]
- 雅教の子
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- [変]当日、誠仁親王の当番として二条御所にあり、親王が御所に移る際に供をする。
飛鳥井雅教 [あすかい まさのり]
- 雅継の父。権大納言。
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- [変]当日、誠仁親王の当番として二条御所にあり、親王が御所に移る際に供をする。
阿閉貞征 [あつじ(あべ) さだゆき]
- ?-天正10(1582)
- 阿閉郡(滋賀県伊香郡高月町)の土豪
- 初め浅井長政の家臣であったが、浅井家が滅亡すると信長に降た。
- [変]後、京極高次らと長浜城を攻撃・占領する。
- [山崎]では光秀軍の先鋒を務めるが大敗、山本山城に逃れる。秀吉軍に追撃され、一族揃って斬首されたという。[明智光秀のすべて]
穴山梅雪・信君 [あなやま ばいせつ・のぶきみ]
- ?-天正10(1582).6
- 武田家の重臣
- 信玄・勝頼と二代にわたって武田家に仕え、信玄の姉を妻とし、甲斐下山(山梨県南巨摩郡身延町)を本拠とした。
- 天正10(1582)年3月、信長の甲斐進攻に際しては、武田の前哨拠点である江尻城の守将であったが、家康の降誘を受け入れ開城した。この背信によって甲斐武田家は事実上崩壊することになる。
- 勝頼の死後、家康の仲介によって信長から旧領を安堵され、所領安堵のお礼のため安土に伺候。その後、堺遊覧中に[変]が勃発し、三河へ脱出する途中、山城宇治田原で土民に襲われ死亡したとされる。
天野源右衛門 [あまの げんえもん] =安田国継
荒木行重 [あらき ゆきしげ]
- 光秀の家臣
- [変]後、佐和山城を守備するが、秀吉に攻められ降伏。
荒木勘十郎 [あらき かんんじゅうろう]
- 光秀の家臣
- [変]後、明智秀満と共に、細川父子に二度目の来援を求める書状を持参している。
荒木村重 [あらき むらしげ]
- 天文22(1553)-寛永2(1625)
- 利休七哲の一
- 子村安の妻は光秀の娘。信長に反旗を翻した際に離縁。
- 天正6(1578)年11月、本願寺・毛利方に通じ、伊丹(有岡)城で叛旗をひるがえした。寄騎の中川清秀・高山右近が信長に降ったのち、孤立しながらも抗戦を試みるが、天正7年9月、妻子・眷族を残したまま尼崎へ移り、ついで行方をくらました。このため、尼崎七松で一族の女房122人が斬・射殺、従者男女510余人は焚殺された。
- 後、畿内に隠れ棲んで道薫と号し、信長死後、秀吉に仕えた。
安国寺恵瓊 [あんこくじ えけい] =恵瓊
飯尾毛介 [いいお もうすけ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
飯河宮松 [いいかわ みやまつ]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
池田、織部 [いけだ、おりべ]
池田恒興・勝三郎・入斎・メシアン [いけだ つねおき・しょうざぶろう・にゅうさい]
- 天文5(1536)-天正12(1584).4
- 信長と乳兄弟の関係にあり、尾張統一の初期から臣従し、信長の転戦の全てに従軍。
- 天正8(1580)年、荒木村重謀反の際、一族の荒木志摩守を摂津花隈城に攻め、乱後村重の旧領を賜り伊丹城主となる。
- 天正10(1582)年5月17日、信長から、中国で毛利と対峙していた秀吉の後詰として出陣を命じられる。
- 光秀の寄騎であったが、[変]後、秀吉に組し、[山崎]では川手の先鋒を務める。
- [清洲]の結果、秀吉・柴田勝家・丹羽長秀と共に四宿老に列した。[信長襲殺]
- 小牧・長久手の戦いでは、信雄の誘いを断り秀吉軍の先鋒を務めるが、三河を急襲しようとして、家康軍に挟撃され、長久手で戦死する。
池田元助 [いけだ もとすけ]
生駒将監 [いこま しょうげん]
石河(川)数正、伯耆 [いしかわ かずまさ、ほうき]
- ?-1592
- 家康の重臣
- 古くから松平家に仕え、酒井忠次らと共に家康を支えた重臣であったが、天正13(1585)年11月、突如秀吉の元に出奔した。(その真意は明らかにされていない)
- 天正10(1582)年5月、家康の安土伺候に従い、[変]後、家康と共に堺を脱出した。
石黒彦二郎 [いしぐろ ひこじろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
石田孫左衛門 [いしだ まござえもん]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
伊勢貞興・与三郎 [いせ さだおき・よさぶろう]
- 永禄2(1559)?-天正10(1582)
- 伊勢家は代々室町幕府の政所執事を勤めた家柄
- 足利義昭に仕えた後、信長に属し、更に光秀の配下になったという。
- [山崎]では光秀軍の右翼を守るが、諏訪飛騨守と共に討死。[明智光秀のすべて]
磯谷新介 [いそがい しんすけ]
- 天正9(1581)年1月13日、吉田兼見が坂本に光秀を訪ねた折りの案内役を勤める。
一乗院覚慶 [いちじょういん かくけい] =足利義昭
一条内基 [いちじょう うちもと]
- 関白
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れ、後、織田信忠を二条御所に訪ねる。
市橋源八 [いちはし げんぱち]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の留守番衆を命じられる。
一色藤長 [いっしき ふじなが]
- ?-慶長元(1596)
- 室町幕府の御供衆で足利義昭の側近
一色義定 [いっしき よしさだ]
- ?-天正10(1582)
- 義道の子。丹後の武将。
- 天正8(1580)年8月、一年余にわたる細川藤孝の攻撃に抵抗を続けたが、光秀の仲介で藤孝の女を娶り和睦した。
- 天正9(1581)年、藤孝に背き、天正10(1582)年9月、宮津の細川氏宅で誘殺された。
五辻為仲 [いつつじ ためなか]
- 1530-天正13(1585)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
伊藤彦作 [いとう ひこさく]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
井戸良弘 [いど よしひろ]
- 天文3(1534)-慶長17(1612)
- 山城槙島城主
- 初め筒井順慶に属したが、井戸城を子十郎覚弘に譲って、自らは信長に仕えた。
- [変]後、光秀軍の一部と共に、近江へ侵攻する。
- [山崎]では秀吉の呼びかけに応ぜず、改易される。[信長襲殺]
稲葉一鉄 [いなば いってつ]
- ?-天正16(1588)
- 美濃守護土岐氏に仕え、後、美濃守護となった斎藤氏に仕えたが、永禄10(1567)年8月、信長が斎藤竜興を攻めると、主家を抜けて信長に加勢した。
- 後、信長の家臣として各地を転戦する。
- 一鉄の従弟妹は、光秀の重臣斎藤利三に嫁いでいる。その利三を光秀の許から取り戻してくれるよう、信長に訴えたところ、光秀に断られた。これが元で光秀は信長に折檻され、それを恨んで信長襲撃を企てることになったという。『続武者物語』
犬飼孫三 [いぬかい まごぞう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
井上 [いのうえ]
井上又蔵 [いのうえ またぞう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
猪子高就 [いのこ たかなり]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
猪子兵介 [いのこ へいすけ]
- 信忠の家臣
- 始め織田信清に仕えたという。
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
今井宗久 [いまい そうきゅう]
- 永正17(1520)-文禄2(1593)
- 宗薫の父、武野紹鴎の女婿。堺の町衆・商人で武野派の茶道家
- 信長が上洛すると積極的に接近し、信長が堺に、矢銭を掛けようとした際に、堺会合衆の中で和睦派として活躍し、信長の庇護の下で、さまざまな権益を得た。
- 信長、秀吉の茶頭を勤めるなど、千利休・津田宗及に次ぐ名声を得た。
- [変]当時は、堺にあって家康の接待に務めていた。
今井宗薫 [いまい そうくん]
- 天文21(1552)-1627
- 宗久の嫡男。堺の町衆で茶人、後に武士
- 父の遺領を継ぐことができず摂津住吉郡内で千石の知行を与えられ、茶頭として出仕した。
- 秀吉の元では恵まれず家康に接近した。[信長襲殺]
今川孫二郎 [いまがわ まごじろう]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
今川義元 [いまがわ よしもと]
- ?-永禄3(1560).5.19
- 今川家は足利将軍家の一族
- 永禄3(1560)年5月19日、尾張に侵入したところ、田楽狭間で信長の奇襲を受け死亡。(この西進が上洛を目指してのことか、尾張侵攻が目的であったのか、意見は分かれている)
今出川晴季 [いまでがわ はるすえ]
- 前内大臣
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
岩 [いわ]
- 毛利岩か。信長の厩仲間衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
上杉景勝 [うえすぎ かげかつ]
- 弘治元(1555)-1623.3.20
- 天正6(1578)年5月、上杉謙信の死後、景虎を追放して家督を継ぐ。
- 以降、盛んに越前・加賀に侵攻するが、柴田勝家らに阻まれる。
- [変]後は、秀吉に通じて勝家を牽制する。
- 秀吉政権下では五大老のに列し、関ケ原の合戦では石田三成の西軍に属し、家康に対抗した。
上野信恵 [うえの のぶえ]
上野秀政 [うえの ひでまさ]
魚往(魚住)勝七(庄七) [うおずみ しょうしち]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
鵜飼 [うかい]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
雲林院、出羽 [うじい、でわ]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
宇野主水 [うの もんど]
- 本願寺顕如の右筆
- 『宇野主水日記』の著者。
- 当時は、顕如と共に紀伊鷺森にあり、翌3日に[変]を知ったと記されている。
多聞院英俊 [たもんいん えいしゅん]
- 奈良興福寺の僧。『多聞院日記』の[変]当時の著者
- [変]当時は、興福寺にあったと思われ、当日に[変]を知ったようである。
安国寺恵瓊 [あんこくじ えけい]
- ?-慶長5(1600).10.1
- 安芸安国寺の禅僧で、博学であったため、毛利輝元に重用され、外交僧として活躍する。
- 天正元(1573)年、毛利家に寄寓していた将軍足利義昭の京都復帰を交渉するため、輝元の使者として信長と対面した。
- 天正10(1582)年6月、備中高松城を水攻めにしていた秀吉と、毛利方の使者として講和をまとめた。講和後、信長の死を知った毛利方が秀吉追撃を計ろうとしたが、和議は成ったとして異を唱えたという。
- 天正11(1583)年、秀吉の家臣となる。関ヶ原の合戦では秀頼方に加わるが、徳川方に寝返った吉川広家に敗れ逃亡。後、京で捕まり石田三成らと共に京の三条河原で斬首される。(恵瓊は信長と対面した時の印象を、[信長の代は三年から五年は持つだろうが、やがて仰向けに転ぶ(横死する)だろう。秀吉はなかなかの者だ]と国元に送った書状の中で述べている。[変]の起こる十年近く前のことである)
お市 [おいち]
- 信長の妹
- 初め浅井長政に嫁ぐが、長政が信長に抵抗したため離縁。その後三女を連れて柴田勝家に嫁したが、[賤ケ岳]で秀吉に敗れ、夫勝家と共に北の庄で自刀。
- 長女の茶々は秀吉の側室淀君、次女のはつは大津城主京極高次の妻、末娘の小督は徳川二代将軍秀忠の妻となった。
正親町 [おおぎまち]
- 1517-文禄2(1593)
- 天皇
- 始めは信長上洛を歓迎したようであるが、信長の力が大きくなるに連れ、次第に疎んじるようになった。
- [変]時には、御所にあったと考えられる。
正親町季秀 [おおぎまち すえひで]
- 1548-慶長17(1612)
- 中納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
太田牛一、和泉守 [おおた ぎゅういち(うしいち)、いずみ]
- 大永7(1527)-?
- 信長、秀吉に仕え、後に[信長公記][大こうさまくんきのうち]など作を著した。この[信長公記]は当時の世情を知る一級の史料とされる。
大塚孫三 [おおつか まごぞう]
- 信長の馬廻衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
大塚又一郎 [おおつか またいちろう]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
大脇喜八 [おおわき きはち]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
小河愛平 [おがわ あいへい]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
小河源四郎 [おがわ げんしろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
奥田庄大夫 [おくだ しょうだいゆ]
小倉松寿 [おぐら しょうじゅ]
- 信長の馬廻衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
小沢六郎三郎 [おざわ ろくろうさぶろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
織田勝長 [おだ かつなが ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
織田長利 [おだ ながとし]
- 信長の弟、信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
織田長益・有楽斎 [おだ ながます・うらくさい]
- 天文16(1547)-1621
- 信長の弟/利休七哲の一
- 信長の武将として武田征討などに加わる。
- [変]当日、京都にあった。
- 後、秀吉に仕える。
織田信雄・茶筅丸・北畠信雄、中将 [おだ のぶかつ・ちゃせんまる・きたばたけ のぶかつ、ちゅうじょう]
- 永禄元(1558)-1630.4.30
- 信長の次男、母は生駒氏
- 永禄12(1569)年、信長が伊勢の国司北畠具教の大河内城を攻め、和睦後、具教の養子となり、具教の娘を娶る。天正3(1575)年6月、家督を譲り受ける。
- 以後、同母兄の信忠と同じく信長直轄の遊撃軍として伊勢衆を率いる。
- [変]後、近江土山まで軍を進めたが弔い合戦には間に合わず、織田家継嗣を決する[清洲]では異母弟の信孝と争う。
- 秀吉と柴田勝家との抗争では、秀吉方に組し、勝家方の信孝を居城岐阜城に攻め、投降させる。
- 後、秀吉と対立し、家康を誘い小牧・長久手の戦いを始めるものの、家康に計ることなく単独で講和した。
- 北条氏の小田原城攻めに従軍。後、美濃・尾張から、家康の旧領三河・遠江への国替えを拒み、下野の那須へ追放される。
織田信包・三十郎・長野信好、上野 [おだ のぶかね・さんじゅうろう・ながの のぶよし、こうずけ]
- 天文12(1543)-1614.7.17
- 信長の弟、信秀の四男
- 永禄11(1568)年、信長が北伊勢を平定した際、伊勢長野次郎の跡を継がせ、長野信好と名乗り同氏の配下を麾下とし、信長直轄の遊撃軍として活躍した。
- 後、家内では信忠、信雄に次ぐ地位を占めるようになった。
- [変]後、秀吉に組し、二人の甥である信雄・信孝に敵対したが、後、秀吉からは冷遇されることになった。
織田信澄・津田信澄・七兵衛 [おだ のぶすみ・つだ のぶずみ・しちべい]
- 弘治元(1555)?-天正10(1582)
- 信長の弟信行の子
- (天正二年甲戌正月)十七日御饗応有、(中略)此時信長公仰に明智光秀の四男を筒井主殿入道順慶の養子とし、光秀の娘を織田七兵衛信澄(信長の御舎弟勘十郎の子なり)に嫁すへき由、又藤孝君に光秀と縁家たるへきよし被命候、[綿考輯録 巻三]
- [変]後、四国征討のため大阪城に待機していたところを、光秀の女婿であったことから、与同していると疑われ、織田信孝・丹羽長秀らによってで殺害された。(光秀と共謀する意図があったかどうかは不明。[明智光秀のすべて])
織田信孝・神戸信孝・三七 [おだ のぶたか、かんべ のぶたか・さんしち]
- 永禄元(1558)-天正11(1583).5.2
- 信長の三男、信雄の異母兄弟
- 永禄11(1568)年、信長が北伊勢を平定した際、豪族の神戸具盛の嗣子となり、元亀2(1571)年、神戸家の当主となる。
- 以後、兄信忠・信雄と同様、信長の直轄遊撃軍として各地を転戦するが、母方の家格が低かったこともあり、兄たちほどは優遇されず、家内での序列は信忠、信雄、伯父信包に次ぐものであった。
- 天正10(1582)年5月11日、四国征討に向かうため、摂津住吉で渡航準備中に[変]が起り、大阪城にいた光秀の女婿織田信澄を斬り、中国から東上して来た秀吉と合流して[山崎]に臨んだ。
- 織田家継嗣を決める[清洲]では、柴田勝家らに推されるが、秀吉の推す三法師に敗れる。
- 一旦は三法師の後見役となったが、勝家に組し秀吉に抵抗して岐阜城に篭り、秀吉方の信雄に囲まれ、三法師を引き渡して投降する。
- 後、秀吉の命により、自害させられる。辞世[昔より 主をうつみの 野間なれば やがて報いん 羽柴筑前]
織田信忠・奇妙丸、三位中将 [おだ のぶただ・きみょうまる、さんみちゅうじょう]
- 1557-天正10(1582).6.2
- 信長の長男
- 1572年7月19日、16才のとき北近江の浅井氏攻めで初陣。当時は元服前で奇妙丸の幼名で呼ばれていた。
- 天正3(1575)年11月28日、信長から家督を譲られ、美濃・尾張と岐阜城を与えられる。以後、天下は信長、織田家は信忠が統治するという役割分担となる。
- 家督を継いだ後、河尻秀隆・森長可・毛利長秀などを配下とし、石山本願寺攻め以降は総大将を務める。
- 天正10(1582)年2月14日、甲斐・信濃の武田征討に従軍。
- [変]当時は、秀吉救援のため中国出陣の途中で、妙覚寺に宿泊していた。[変]を知り、一旦は本能寺を目指そうとしたができず、二条御所に移る。誠仁親王らを避難させ、防戦するが防ぎきれず、鎌田新介の介錯で自害。
織田信長 [おだ のぶなが]
- 天文3(1534).5.12-天正10(1582).6.2
- 天文18(1549)年、父信秀の死後、家督を継ぐと尾張を中心に割拠していた織田各家を糾合し、永禄10(1567)年には隣国美濃の斎藤竜興を倒して、濃尾を平定する。
- 当時、松永久秀・三好三人衆らに京を追われていた、足利義昭から上洛の後援を依頼されて、永禄11(1568)年9月、上洛を果たし、義昭は室町十五代将軍に就く。
- 将軍の実権を握ろうとする信長と、室町幕府の再興に執念を燃やす義昭との対立が深まり、義昭に呼応した本願寺・浅井・朝倉との抗争が続くが、天正元(1573)年7月には義昭を京から追放、翌8月には義昭を支えてきた朝倉・浅井を滅ぼして、義昭との抗争に終止符が打たれた。
- その後も本願寺との抗争は続くが、天正8(1580)年、正親町天皇の勅旨により本願寺との講和が成り、京畿一帯を制して、周辺への侵攻を進める。
- 天正10(1582)年3月、甲斐の武田を滅ぼし、同6月、秀吉が進めていた中国毛利氏攻撃に赴援しようとして、本能寺に逗留中、光秀の急襲に遭い死亡する。
織田信益・源五 [おだ のぶます、げんご]
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の留守番衆を命じられる。
落合小八郎 [おちあい こはちろう]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
越智小十郎 [おち こじゅうろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
阿福 [おふく]
- 斎藤利三の娘
- 後、徳川三代将軍家光の乳母春日局となる。
小山田信茂 [おやまだ のぶしげ]
- ?-天正10(1582)
- 武田家の重臣
- 古くから武田家に仕えた家柄で、重用され、殆どの戦いに加わっている。
- 長篠の戦いでは、多くの犠牲を払いながら、かろうじて生還した。
- 信長の甲斐征討では、武田勝頼を居城岩殿城(山梨県大月市)に誘い、これを討とうとしたが失敗。信長への帰参も叶わず、殺害された。
オルガンチノ
下石彦右衛門 [おろし ひこえもん]
- 近江の土豪。信忠の家臣。
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。