八木、駿河 [やぎ、するが]
矢代勝介 [やしろ かつすけ]
- 信長の御番衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
安田国継・天野源右衛門 [やすだ くにつぐ・あまの げんえもん]
- 光秀の家臣
- [変]では先鋒として本能寺を急襲。
- [山崎]では敗走。
- 後、天野源右衛門と改称して、羽柴秀勝、同秀長、蒲生氏郷に仕える。[信長襲殺]
矢部善七郎 [やべ ぜんしちろう]
柳原淳光 [やなぎはら あつみつ]
山岡景佐、対馬 [やまおか かげすけ、つしま]
- 景之の次男、西近江守護代、近江膳所城主
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
山岡景隆 [やまおか かげたか]
- 大永6(1526)-天正13(1585)
- 景之の長子、瀬田城主
- 初め将軍足利氏に仕えていたが、後、信長に仕え、天正元(1573)年7月、足利義昭の挙兵に対抗する。
- [変]後、光秀からの与同の誘いを拒否し、瀬田橋を焼き落して抵抗。
- [賎ケ岳]では柴田勝家に組したため、所領没収などの制裁を受けた。
山岡景友 [やまおか かげとも]
山岡景猶・玉林斎 [やまおか かげなお・ぎょくりんさい]
山岡景之・玉林房・光浄院暹慶 [やまおか かげゆき・ぎょくりんぼう・こうじょういん せんけい]
山県昌景 [やまがた まさかげ]
- 武田家の重臣
- 信玄の小姓として武田家に仕え、三方ケ原の戦いなどで活躍。
- 天正3(1575)年、長篠の戦いでは、馬場信春らと共に勝頼に撤退を進言したが聞き入れられず、殿を務めて討死した。
山口小弁 [やまぐち こべん]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
山口半四郎 [やまぐち はんしろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
山崎片家 [やまざき かたいえ]
- [変]の報に接し光秀に与同することを決意。夜に入って、安土の屋敷を焼き払い居城の犬上郡山崎に退く。
- 天正10(1582)年6月5日、武田元明らと佐和山城を攻撃・占拠し、同城を守備する。
山科言経 [やましな ときつね]
- 天文2(1533)-慶長16(1611)
- 権中納言
- 『言経卿記』の著者。
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- [変]当日から2週間ほどの日記は、中断したり、追記してあったり、簡単な記述しかなく、情況を見定めようとしたのではないか、と考えられる。
山田八右衛門 [やまだ はちえもん]
山田弥太郎 [やまだ やたろう]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
山上宗二 [やまのうえ そうじ]
- 天文13(1544)-天正18(1590)
- 堺の山上に済んでいたことから山上が通称となったが、屋号を薩摩屋と称する町衆で、利休を師とする茶人。その実力もさることながら歯に衣をきせぬ厳しい批評眼を持ち、憎まれることもあったという。
- 信長次いで秀吉に茶堂として仕えた。[信長襲殺]
山内一豊 [やまのうち かずとよ]
- 天文15(1546)-慶長10(1605).9.20
- 秀吉に属し、播磨三木城攻め、[賤ケ岳]、小田原征討などに従軍する。
- 関ケ原の合戦では家康に従い、軍議の席上、居城掛川城を家康に進呈すると発言し、東西どちらに加わるか逡巡していた武将が、雪崩を打って東軍に従うことになるきっかけを作ったとされる。戦後は土佐一国を与えられ、高知を居城とした。
山本、対馬 [やまもと、つしま]
弥六 [やろく]
湯浅甚介 [ゆあさ じんすけ]
- 信長の馬廻衆
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
与一 [よいち] =細川忠興
与一郎 [よいちろう] =細川藤孝
吉田兼見・兼和 [よしだ かねみ・かねかず]
- 天文4(1535)-慶長15(1610).8
- 京都吉田神社の神主
- 天正元(1573)年、正四位下・神祗大副、天正10(1582)年、従三位、慶長2(1597)年、従二位に叙す。
- 朝廷の使者として、時の権力者と接触する機会が多く、著書『兼見卿記』は、当時の政治情勢や社会・文芸の諸方面にわたって貴重な資料である。
- 光秀との関係も深く、[変]直後にも、何度か会っている。
四辻公遠 [よつつじ きんとう]
- 天文9(1540)-文禄4(1595)
- 権大納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- [変]当日、誠仁親王の当番として二条御所にあり、親王が御所に移る際に供をする。
淀君・茶々 [よど ぎみ・ちゃちゃ]
- 永禄10(1567)-元和元(1615)
- 父は浅井長政、母はお市
- 浅井氏が信長に倒された後、母が再嫁した柴田勝家に養われ、信長の死後、勝家が[賎ケ岳]で秀吉に敗れると、秀吉の側室となる。
- 秀吉のただ一人の男子、秀頼を生み、秀吉の死後は秀頼を後継とするべく家康に対抗したが、大阪の陣で敗れ自殺。
冷泉為満 [れいぜい ためみつ]
- 永禄2(1559)-元和5(1619)
- 公家
- 藤原定家の家筋で、代々歌道家として活躍した。
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
六条有親 [ろくじょう ありちか]
- 永禄7(1564)-元和2(1616)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
六角承禎・義賢 [ろっかく じょうてい・よしかた]
- 江南(南近江)の守護
- 永禄5(1562)年3月、兵を京に派遣し、足利義輝や三好義興・松永久秀らを追放する。
- それまでは江北の浅井氏と誼を通じていたが、長政が信長の妹お市を娶り、信長と結んだため、浅井氏と決別する。
ロレンソ
和田惟政 [わだ これまさ]
和田秀純 [わだ ひでずみ]
- 光秀の家臣
- 西近江雄琴の土豪で、光秀が近江滋賀郡を与えられて後、光秀の家臣となる。[明智光秀(小和田)]
渡辺与右衛門 [わたなべ よえもん]
ワリニヤノ [アレッサンドロ、Alessandro Valignano]
- 天文8(1539)-1606
- イタリアのイエズス会宣教師
- 天正7(1579)年、日本巡察使として来日、キリシタンの布教を指導。
- 天正遣欧使をローマに派遣したり、印刷機をもたらした。