[資料 本能寺の変][坂本城縄張図] |
坂本城縄張図
本丸は、ほぼ完全に琵琶湖に張り出しており、二の丸も一部は湖の中にあります。
場所は、現在の坂本城址公園(滋賀県営都市公園湖岸緑地・北大津地区)よりも北にありました。
公園の案内板に[元亀三年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳まで及んでいたとされる。]とあります。
作成に当たっては、[大津の城](ふるさと大津歴史文庫2、企画編集:大津市史編さん室、出版:大津市役所)を参考にさせていただきました。
この場を借りてお礼を申し上げます。
図の下の地名・史跡名の一部(数字が少し太め)は、[本能寺の変 ゆかりの地]にリンクしています。是非、ご覧ください。
坂本城略年譜
今日より光秀の坂本城は普請(改修工事)を始めたとか、細川藤孝から応援を送ってもらったという
光秀は(坂本城の)普請(改修工事)を進めている、様子を見学に坂本に向かう、侍從(息子の吉田兼治)を連れ、菓子折一つと肴(五種)を持参、面会、夕食の接待を受けた、心のこもったもので大変満足した、普請の様子には(立派なもので)たいそう驚いた、
光秀は(信長から秀吉の備中攻めを助けるよう指示があったので)安土から坂本に帰った、(長岡与一郎、池田勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛等、先陣として出勢するよう指示があった者)いずれも本国へ帰り出陣の用意である、
光秀へお礼のため坂本へ下る。お祓い(お祓いを済ませた品物?)と金子百疋を届けた。小天主で対面した。
光秀へお礼のため坂本へ下る。お祓い(お祓いを済ませた品物?)と金子百疋を持参した。面会し、小天主で茶湯と夕食。
坂本城の天主(守)が放火されたという、高山次右衞門が火を付け切腹したとか。