花山院 家雅 [かざんいん いえまさ]
- 永禄元(1558)-寛永11(1634)
- 左中将
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
加治、石見 [かじ、いわみ]
勧修寺 晴豊 [かじゅうじ はれとよ]
- 天文13(1544)-慶長7(1602)
- 権大納言
- 武家伝奏職を務め、信長・秀吉とも交流があり、著書『晴豊記』は当時の世情を知る上で貴重な史料である。
- 天正10(1582)年6月1日、正親町天皇と誠仁親王の勅使として、信長の上洛を祝うために本能寺に出向き、後、信忠を二条御所に訪ねる。
- [変]を知って、二条御所に駆けつけたが、光秀軍の兵士に阻止され、情況を報告するため内裏に向かった。
柏原 鍋 [かしわばらなべ]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
春日 源八郎 [かすが げんぱちろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
和仁 [かずひと]
- 元亀2(1571)-元和3(1617)
- 正親町天皇の孫、誠仁親王の子、後の後陽成天皇
片桐 且元、市正 [かたぎり かつもと、いちのかみ]
- 弘治2(1556)-元和元(1615).5.28
- 賤ケ岳七本槍の一人
- 幼少より秀吉に仕え、[賤ケ岳]での功により3千石を与えられ、後、秀吉の直属部隊として活躍する。
- 行政手腕を買われ、各地の検知などを担当した。
- 秀吉の死後、秀頼の後見となり豊臣家の存続に力を尽くしたが、大阪の陣では徳川方に属し、大阪城落城の直後に死去した。
賀藤、兵庫頭 [かとう、ひょうごのかみ]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の留守番衆を命じられる。
加藤 清正 [かとう きよまさ]
- 永禄5(1562)-慶長16(1611).6.24
- 賤ケ岳七本槍の一人
- 幼少より秀吉に仕え、[賤ケ岳]での功により3千石を与えられる。
- 天正16(1588)年、肥後の北半を領し隈本城主となる。
- 朝鮮の役では小西行長と共に先鋒を努め渡海。虎退治の有名な話が伝わっている。
- 関ケ原の合戦では徳川方に属した。
賀藤 辰 [かとう たつ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
金森 義入 [かなもり ぎにゅう]
- 信長の小姓。金森長近の次男長則か?
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
金森 長近・五郎八 [かなもり ながちか・ごろうはち]
- 大永5(1525)?-慶長13(1608)?
- 美濃の出身で、早くから信長に仕え、赤母衣衆の一人。馬廻りだが小部隊の指揮官だったらしい。[信長の親衛隊]
- 天正3(1575)年8月、越前の一向一揆は平定され、論功行賞により大野郡の三分の二3万石を与えられる。以降、柴田勝家の寄騎となる。
- [変]後の[賎ケ岳]でも、秀吉に対抗した柴田勝家と行動を共にしたが、勝家滅亡後は秀吉に従い、天正13(1585)年の飛騨侵攻の戦功により、飛騨高山を与えられる。
- 秀吉没後は、家康に仕え[関ケ原の合戦]にも参陣し、戦功により美濃に2万余石を与えられる。
- 千利休に茶を学び、良く嗜んだ人としても有名。
可児 左衛門 [かに さえもん]
- 光秀の家臣
- 岐阜県可児市広見の出身[明智光秀(小和田)]で、光秀が信長に仕官する以前からの家臣。
狩野 又九郎 [かのう またくろう]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
狩野 元秀 [かのう もとひで]
カブラル
- 布教長
- 元亀2(1571)元亀2年10月、九州豊後から堺に至り日比屋了珪宅へ泊り、河内・大和・摂津・山城と廻って歓迎を受けた。
- 1572年12月、フロイスと共に堺の火薬輸入業者に案内されて岐阜城の信長を訪ねる。
鎌田 新介 [かまた しんすけ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
神谷 宗湛 [かみや そうたん]
蒲生 氏郷 [がもう うじさと]
- 弘治2(1556)-文禄4(1595).2.7
- 賢秀の嫡男
- 永禄11(1568)年、13歳の時人質として信長の元に送られ、信長の娘を娶って日野に戻る。
- 以降、信長に従って各地に転戦する。
- [清洲]では秀吉方に付き、後継者として三法師を擁立した。
- 天正12(1584)年に松ケ島12万石、天正18(1590)年には会津42万石、文禄3(1594)年には73万石と、徳川・毛利に次ぐ大大名となった。
- 文禄4(1595)年、京で病のため没する。
蒲生 賢秀、右兵衛大輔 [がもう かたひで、うひょうえだゆう]
- 天文3(1534)-天正12(1584)
- 氏郷の父、織田の家臣
- 近江守護佐々木(六角)氏の元家臣。
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
- [変]後、光秀の与同の誘いを断り、信長の妻子を連れ日野城に籠った。
烏丸 光宣 [からすま みつのぶ]
- 天文18(1549)-慶長16(1611)
- 権中納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
ガラシア [がらしあ] =細川ガラシア
唐橋 在通 [からはし ありみち]
- 永禄6(1563)-元和元(1615)
- 公家
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
カリヤン
- 宣教師
- [変]当時、本能寺近くの聖堂(南蛮寺)におり、詳細な見聞報告を、九州のフロイスに書き送っている。
河崎 与介 [かわさき よすけ]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
河嶋、刑部丞 [かわしま、ぎょうぶ]
- 光秀の家臣
- 山城国革嶋荘の出で、光秀が近江滋賀郡を与えられて後、光秀の家臣となる。[明智光秀(小和田)]
河尻秀隆・与兵衛 [かわじり ひでたか・よへい]
- 大永7(1527)-天正10(1582)
- 織田家の宿老
- 信長の赤・黒二つの母衣衆の中で黒母衣衆筆頭、後、信忠を補佐役として活躍する。
- 天正10(1582)天正10年3月29日、甲斐平定に伴い甲斐国を与えられるが、[変]後、甲斐に起きた一揆に襲われ死亡。
神戸 二郎作 [かんべ じろさく]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
神戸 信孝 [かんべ のぶたか] =織田信孝
甘露寺 経元 [かんろじ つねもと]
- 1530-天正13(1585)
- 権大納言
- 天正10(1582)年6月1日、正親町天皇と誠仁親王の勅使として、信長の上洛を祝うために本能寺に出向く。
北畠 信雄 [きたばたけ のぶかつ] =織田信雄
奇蝶・帰蝶・濃 [きちょう・のう]
- 斎藤道三の娘、信長の正室(美濃から嫁いできた姫ということで[濃]とも呼ばれる)
吉川 元春 [きっかわ もとはる]
- 1530-天正14(1586)
- 毛利元就の次男
- 天文16(1547)年、安芸北部の豪族吉川興経(おきつね)の養子となる。
- 毛利が秀吉に屈した後、一旦は臣従することを嫌って隠居したが、毛利輝元や小早川隆景らに請われて秀吉の九州征討に参加し、小倉で没した。
- 吉川・小早川を両川と呼ぶ。
奇妙丸 [きみょうまる、おだ のぶただ] =織田信忠
木村 次郎左衛門 [きむら じろうざえもん]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の二の丸番衆を命じられる。
興意法 [きょういほう]
京極 高次 [きょうごく たかつぐ]
- 永禄6(1563)-1609
- 高吉の長男、近江大津城主
- 京極家は代々近江で勢力を誇った家柄であったが、北近江の浅井氏に押され、浅井氏が信長によって滅ぼされると、信長に属した。
- [変]後、光秀に応じ秀吉の所領長浜を攻撃し京極氏の復興を期したが、光秀敗死を聞いて越前若狭に逃れる。[信長襲殺]
京極 高吉 [きょうごく たかよし]
- 永正5(1508)-天正9(1581)
- 近江上平寺城主
- 足利義輝の近習で、義輝が松永らに暗殺されると、近江に逃れた足利義昭のために奔走。
- 義昭上洛当初は義昭に従っていたが、信長と対立するに及び、信長に長男高次を送って、自らは上平寺城に蟄居した。[信長襲殺]
本願寺教如・光寿 [きょうにょ・みつとし]
- 永禄元(1558)-1614
- 顕如の長子、本願寺法主
- 天正8(1580)年4月、信長と和し、本願寺を退去した父顕如の跡を継いで法主となるが、和議に反対し、本願寺石山城に篭城、信長に抵抗した。
- 天正8(1580)年8月2日、信長の再度の退去勧告に従って、石山城を出、紀伊雑賀に移る。石山本願寺は焼失。
空性法 [くうしょうほう]
久々利 亀 [くぐり かめ]
- 信長の小姓
- 信長に従い、[変]により本能寺で討死。
櫛田 忠兵衛 [くしだ ちゅうべい]
- 織田の家臣
- 天正10(1582)年5月29日、信長上洛の際に安土城の留守番衆を命じられる。
九条 兼孝 [くじょう かねたか]
- 天文22(1553)-1636
- 前関白
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れ、後、織田信忠を二条御所に訪ねる。
宮内法印 [くないほういん] =松井友閑
熊 [くま]
黒田 孝高・官兵衛・如水 [くろだ よしたか・かんべい・じょすい]
- 天文15(1546)-慶長9(1604).3.11
- 天正3(1575)年、信長に属し、秀吉の元に配属され、参謀として活躍する。
- 秀吉に[自分に変わって天下を治めるのは黒田孝高であろう]と言わしめ、関ケ原の合戦後、家康に[西国一の弓取り]と言わしめた程の名軍師。
- 秀吉の九州平定の後は豊前中津を領し、関ケ原の合戦では、九州の秀頼方諸城を落とすなどの戦功を立てた。
桑原 九蔵 [くわはら くぞう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
桑原 助六 [くわはら すけろく]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
本願寺 顕如・光佐 [けんにょ・みつすけ]
- 天文12(1543)-1592
- 教如の父、本願寺法主
- 天正8(1580)年閏3月、本願寺を退去することで信長と和す。しかし、新法主長子教如は、和議に反対し、本願寺に篭城、信長に抵抗した。
- [変]当時は紀伊鷺森にあり、翌3日に[変]を知った。
光浄院 暹慶 [こうじょういん せんけい] =山岡景之
河野 善四郎 [こうの ぜんしろう]
- 信忠の家臣
- 信忠に従い、[変]により二条御所で討死。
コエリオ
久我 季通 [こが すえみち]
- 永禄8(1565)-?
- 権中納言
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
小駒若 [ここまわか]
小虎若 [ことらわか]
小西 行長 [こにし ゆきなが]
- 1557-慶長5(1600).10.1
- 熱心なキリスト教徒
- 父小西立佐は堺で薬問屋を営み、備前宇喜田家に出入りしていたが、宇喜田直家が信長に属して後、秀吉に仕え、肥後宇土の領主となる。
- 1592年の朝鮮出兵では、先鋒となって渡鮮。
近衛 前久 [このえ さきひさ]
- 天文5(1536)-慶長17(1612)
- 前太政大臣/本願寺顕如の子教如は前久の猶子
- 信長との関係が深く、天正10(1582)年3月の甲斐征討にも同行している。
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
- [変]当日の動向は不明だが、光秀軍の兵士が二条御所所の近くにあった前久邸の屋根に登り、弓・鉄砲を射掛けたことから、光秀との関係を疑われ詰問されたという。
近衛 信基 [このえ のぶもと]
- 内大臣
- 天正10(1582)年6月1日、上洛した信長に挨拶のため、本能寺を訪れる。
小早川 隆景 [こばやかわ たかかげ]
- 天文2(1533)-慶長2(1597).6.12
- 毛利元就の三男
- 天文13(1544)年、小早川興景(おきかげ)の死後、小早川家を継ぐ。
- 毛利が秀吉に屈した後、兄の吉川元春とは違って秀吉に近づき、九州・四国征討に加わり、その功によって筑前・筑後などを与えられた。
- 吉川・小早川を両川と呼ぶ。
惟住 [これずみ] =丹羽長秀
惟任 [これとう] =明智光秀