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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][洞ヶ峠]
天正十年六月十日、明智光秀、筒井順慶に加勢を求める-洞ヶ峠-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
地名・史跡名 洞ケ峠
人物 筒井順慶
洞ケ峠茶屋
撮影場所(Google マップ)
洞ケ峠茶屋の入口に、[洞ヶ峠]と題した説明板があります。
それには、
この峠は、京都府(山城国)と大阪府(河内国)との国境をなし、かつては東高野街道の要衝の地であったため、南北朝時代には男山・荒坂山とともに、たびたび戦乱の舞台になった。
本能寺の変(天正十年=一五八二)の後、明智光秀と羽柴秀吉が山崎の合戦をした折、光秀に助勢を頼まれた大和郡山の筒井順慶がこの峠まで出陣し、戦況の有利な方に味方しようと観望していた場所として著名である。この故事から日和見することを、[洞ケ峠を決め込む]ともいう。
しかし実際には、順慶は洞ヶ峠まで出かけるどころか、光秀の誘いを蹴り郡山城に篭城していたという。それにもかかわらず、順慶は日和見主義の代表者の汚名を着せられ、一方、そのおかげで洞ヶ峠は天下に知れわたって伝えられている。
平成六年 枚方市教育委員会
とあります。
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本能寺の変前後の筒井勢、天正十年六月十四日
]をご覧下さい。
筒井順慶陣所跡
撮影場所(Google マップ)
撮影場所(Google マップ)
八幡洞ケ峠交差点に筒井順慶陣所跡碑があります。
あいにく、[筒井□□□□跡]としか読み取れませんが、[筒井順慶陣所跡]なのだそうです。
本能寺の変前後の筒井勢
天正十年六月四日
四日、筒井ニハ南方衆・井戸一手ノ衆帷任へ今日立云々、
[多聞院日記、天正十年六月四日条]
(六月)四日、筒井(順慶)は南方衆・井戸一手の衆を帷任(帷任日向守、明智光秀)のもとに向かわせたという。
天正十年六月五日
筒井先日城州へ立タル人數今日至江州打出、向州ト手ヲ合了、順慶ハ堅以惟任ト一味云々、いかゝ可成行哉覧、
[多聞院日記、天正十年六月五日条]
筒井(順慶)は先日出立させた勢(南方衆・井戸一手の衆)を、今日、江州(近江)に向い向州(日向守、明智光秀)と合流させた、順慶は惟任(惟任日向守、明智光秀)と手を組むという、どのようになるか見守ろう。
羽芝筑前守西國与和睦シテ近日可有上洛旨頗ニ風聞在之、・・・從順慶者羽筑へ今中へ被差遣入魂由風聞、
[蓮成院記録、天正十年六月五日条]
羽芝筑前守(羽柴秀吉)は西國(毛利)と和睦し、近く上洛するという噂が頻りに飛び交(とびか)っている。・・・(筒井)順慶は羽筑(羽柴筑前守、秀吉)に使いを遣わして、恭順の意を伝えたとの噂がある。
[蓮成院記録]には、[(順慶が秀吉に)恭順の意を伝えたとの噂がある]とある一方、
[多聞院日記、天正十年六月五日条]
には、[順慶は惟任(惟任日向守、明智光秀)と手を組むという(順慶ハ堅以惟任ト一味云々)]とあります。真偽いずれとも判じがたいさまざまな情報が飛び交っていたということでしょうか。
惟日ハ山崎八播(幡)ホラカ峠ニ着陣云々、
[蓮成院記録、天正十年六月五日条]
(六月五日)惟日(帷任日向守、明智光秀)は八幡洞ヶ峠に着陣した。
但し、これは明智勢の一部が着陣したことを指し、明智光秀自身は、この日、安土城に入城しています(日向守安土へ入城云々、
[兼見卿記(別本)、天正十年六月五日条]
)。
天正十年六月九日
今日河州へ筒衆可有打廻之由沙汰之處、俄ニ延引云々、又郡山城へ塩米俄被入云々、いかゝ覺悟相違哉、ふしん/\、いかゝ、
[多聞院日記、天正十年六月九日条]
今日(九日)、筒井勢が河州(河内、大阪府北東部)に打ち出るということだったが、俄(にわ)かに中止し、大和郡山城(奈良県大和郡山市)に塩や米を入れ始めた。(光秀に加勢するという)覚悟を変えたのか?不審なことだ。
天正十年六月九日
先日山城へ立筒人數昨今打返了、藤吉近日ニ上決定決定ト、依之覺悟替ト聞ヘ了、
[多聞院日記、天正十年六月九日条]
先日山城へ発った筒人數(筒井勢)は引き返した。藤吉(藤吉郎、羽柴秀吉)は近日中に上洛とか。それによって(筒井順慶は)態度を変えた(光秀から秀吉に鞍替えした)と聞く。
天正十年六月十一日
藤吉ヘハ既順慶無別儀間、誓帋被遣之、村田・今中使云々、
[多聞院日記、天正十年六月十一日条]
(筒井)順慶は、既に藤吉(藤吉郎、羽柴秀吉)に組することを決めており、そのことに変わりはない旨を認めた誓帋(誓紙、起請文)を、村田・今中に届けさせた。
今日四過ニ郡山ニテ順慶腹切ス[ト脱カ]申來、以外仰天ノ處順慶ニテハナシ、傳五ニ腹切セ了ト申來、肝消ス處ソレモウソ也、ナラ中同前ノ沙汰、併天魔ノ所爲也、
[多聞院日記、天正十年六月十二日条]
今日四過(未詳、四ツ過ぎで午前十時過ぎか?)、(大和)郡山で(筒井)順慶が切腹したと注進してきたものがあり、仰天したが順慶ではなかった。傳五(藤田伝五、行政、光秀の重臣)に切腹せよと迫られて*、肝を冷やしたというが、それも嘘だった。ナラ(奈良)中同じように驚き肝を冷やしたが、天魔の所業であった。
* 明智方に組するように説得に来た藤田伝五に対し、既に秀吉に恭順することを伝えていた順慶は、拒否したのであろうか或いは曖昧な返事に終始したのであろうか、その態度に藤田が怒り、それなら切腹せよと迫ったもの。順慶は、信長から光秀の四男を養子とせよ、と言われており(実際にそうしたかどうかは不明)、また大和の支配も光秀と共に行うなど関係が深かったことから、光秀側は容易に組してくれるものと考えていたのかもしれない。
天正十年六月十二日
十二日、葉(羽)柴藤吉既至攝州、猛勢ニテ上、家康既至安土著陳云々、如何可成行哉覧、惟日柴八幡・山崎ニ在之淀邊へ引退歟云々、依之今朝ハナラ中靜ル、
[多聞院日記、天正十年六月十二日条]
十二日、既に葉柴藤吉(羽柴藤吉郎、秀吉)勢は、攝州(摂津)に至ったという。猛烈な速さである。(徳川)家康は安土に着陣したという。どうなることであろうか。惟日(惟任日向守、光秀)勢は柴八幡(未詳、やわた、京都府八幡市付近のことかと思われる)・山崎(京都府乙訓郡)辺りに布陣していたが、淀(京都市伏見区)辺りまで引いたという、そのため今朝はナラ(奈良)中、胸を撫(な)で下ろした*。
* 前日十一日に、[順慶が切腹した][明智家臣の藤田伝五に切腹せよと迫られた]との噂が伝わり、ナラ(奈良)中驚き肝を冷やしたが、八幡(やわた、洞ヶ峠一帯)から明智勢が淀まで引いたということで、ひとまず胸を撫(な)で下ろしたことを指す。
昨日於郡山國中与力相寄血判起請在之、堅固ニ相拘了、
[多聞院日記、天正十年六月十二日条]
昨日、郡山国中(大和国)の与力(筒井家に属する武将)が寄り集まり、起請文(神仏に祈願する形をとって誓いや約束を記した文書)に血判し、(違背ないことを)堅く誓い合った。
天正十年六月十四日
順慶仕合毛寂初ハ以外機遣ナル由歟、一段仕合無比類由也、歸陣珍重々々、當國儀モ弥無別儀旨珍重々々、
[蓮成院記録、天正十年六月十四日条]
順慶は、幸いにも初めの気遣い*は杞憂(きゆう)であった、一段と喜ばしいことこの上ない、(無事)帰陣することができて、めでたいめでたい。当国(大和国)のことも、これまでと特に変わることもなく、めでたいめでたい。
* 六月五日の条に[從順慶者羽筑へ今中へ被差遣入魂由風聞[(順慶が秀吉に恭順の意を伝えたとの噂がある)]とあり、光秀組下の順慶が、本能寺の変の僅か数日後には光秀を見限って秀吉に近付いたことを懸念していたようで、それを指すものと思われます。
[順慶の日和見]という話がありますが、実際には、間髪入れずに光秀から秀吉に鞍替えしました。
もっとも、明智方へは、結局、はっきりとした返事をしなかったようですが、それも戦術でしょう。