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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][南蛮寺]
天正十年六月二日、本能寺の変、明智勢、次いで妙覚寺の織田信忠を討つ-南蛮寺-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
地名・史跡名 南蛮寺
蛸薬師通室町から東を望む
撮影場所(Google マップ)
西洞院通から蛸薬師通を200m程東に進んだところです。
蛸薬師通の北(写真の左手)に、[南蛮寺跡]の石柱があります。
本能寺から300m足らずの距離です。
南蛮寺跡石柱
撮影場所(Google マップ)
本能寺から蛸薬師通(四条坊門小路)を東に進み、新町通(町尻小路)と室町通(室町小路)の中程北側にこの石柱があります。
本能寺跡の石柱があるところから250m、歩いて3分程しかありません。
この南蛮寺は、天正五年(由緒書によれば天正四年)、オルガンチノが信長の援助を受けて完成しました。
三階建で和風に洋風を加味した、いわゆる南蛮風で、技巧をこらしたものであったそうです。
三階建てということですから、当時としては高層の建物で、本能寺も西の方向に望めたのではないかと思います。
由緒書には、
此付近南蛮寺跡(このふきんなんばんじあと)
織田信長の時代に、耶蘇(やそ)会(イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった[南蛮寺]は、この北側、姥柳町(うばやなぎちょう)の辺りにあったといわれている。
戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄(えいろく)二年(一五五九)から本格化し、永禄四年(一五六一)にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害に遭(あ)いながらも、宣教師は布教に努め、信長の保護もあって信者は増加した。天正四年(一五七六)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝(むらいさだかつ)の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、七月十六日に献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では、珊太満利亜上人(さんたまりあしょうにん)の寺とも呼ばれた。
しかし、天正十五年(一五八七)六月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地には復興されることはなかった。
京都市
とあります。
わが聖堂(南蛮寺)は信長の所より僅に一街を距てたのみであった故、キリシタン等が直に来て、早朝のミサを行ふため着物を着替へていた予(パードレ・カリヤンならん)に対し、宮殿(本能寺)の前で騒が起り、重大事件と見ゆる故暫く待つことを勧めた。その後銃声が聞え、火が上った。つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た。
[イエズス会日本年報]
[信長の所]とは、[信長が投宿していた本能寺]のことです。