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[家康の関ケ原][第一章 家康の生い立ち]


松平竹千代、三河に生まれる

当時の三河は、北の尾張織田氏と南の駿河・遠江・三河を領していた今川氏の狭間にあって、小領主たちはいずれかに庇護を求めなければ、生き延びていくことがてきない状況にありました。

そうした天文11年12月26日壬寅(1543年1月31日)、家康は、その三河国岡崎城主松平広忠と緒川城主水野忠政の娘於大の嫡子として生まれ、竹千代と名づけられます。

その翌天文12年、母於大の父水野忠政が病没します。そして、母於大の兄に当たる水野信之(信元?)が水野家の跡を継ぎます。ところが、信之は、それまでの今川氏との関係を絶ち、新興著しい織田氏に属することにしたのです。
結果的には、水野信之に先見の明があったということになるのですが、そのため今川氏に属していた松平広忠は、織田氏と結んだ水野家と絶縁するため、於大と離別し水野家に帰します。
(松平広忠は、後の天文14年、田原城主戸田康光の娘と再婚します)

中西信男氏は【関ケ原合戦の人間関係学】の中で、

そのとき、母の年齢は十七歳、家康はわずか三歳(満一歳七ヶ月)であった。・・・
ここでわざわざ満年齢を計算したのは、幼児の母子関係にとって三歳と一歳七ヶ月とでは全く自我発達の様相を異にするためである。・・・一歳七ヶ月はまさに分離固体化の最中であって、きわめて不安定な自我発達の段階にあるからである。
・・・没して、生後2年足らずで実母と生別したが、・・・この時期は・・・「融和した自己期(18カ月~30カ月)」とよばれ、自己の断片化の危険から脱するが、しかし、共感的対応を示す自己・対象にめぐまれず、緊張や自己評価調節の諸機能がうまく出来ない。この時期に停滞、あるいは退行している人は自己愛的性格とよばれる。

と述べ、このことが家康の性格形成に大きな影響を及ぼしたと述べておられます。


竹千代、今川家の人質となる

この頃、次第に織田信秀の三河侵攻が激しくなり、その矛先が岡崎城に向けられるようになると、父松平広忠は、人質を差し出すことを条件に駿河の今川氏に助勢を求めます。その人質が竹千代(後の家康)でした。
ところが、天文16年6月、その竹千代が駿河に向かう途中、継室の父である戸田康光が、こともあろうに、人質の竹千代を織田信秀に売り渡してしまうという、前代未聞の椿事が起きます。
(余談ですが、この戸田康光は、後に今川義元の攻撃を受け減亡します)
今川家へ送られるはずの竹千代は、尾張織田家の人質となります。竹千代、6歳(満5歳6ヶ月)の時でした。
(信長とは、この時期に出会っているようです)

翌天文18年4月、父松平広忠が没します。三河国広瀬城主佐久間全孝が遣わした岩松弥八に暗殺されたともいわれ、あるいは、病没したともいわれていますが、いずれにしても、こうして竹千代は8歳(6歳4ヶ月)で、母に続いて父をも失うことになったのです。
松平広忠が没すると、今川氏の触手は伸び、今川義元の軍師太原雪斎が、織田信秀の長子信広の安祥城を陥れるなど、三河は今川氏の支配するところとなります。そして、同8月、今川義元は、人質とした織田信広と、織田家が奪い取った松平家の人質の交換を要求し、織田家もこれを受け入れます。

かくして、竹千代は織田家から開放され、一旦岡崎に戻るものの、すぐに今川家の本拠駿河に送られ、更に十年余の人質生活を送ることになります。
その間、弘治元年3月、元服し元信と名乗り、弘治3年1月、今川義元の姪関口義広の娘(後に築山殿と呼ばれる)を娶ります。


元康、三河岡崎城に戻る

永禄3年5月、大軍を率いて上洛を目指していた今川義元が、田楽狭間で信長の急襲を受け死亡するという事件が起きます。この今川上洛軍には、当然のことですが、人質となっている元康(元信、家康)も先鋒隊として加わっていました。
義元が討たれた頃、元康は大高城にあって奮戦中でした。元康は、この報に接すると、他の今川勢と同様に撤退しますが、元康の伯父水野信元の助言を容れ、岡崎城の近くの大樹寺に身を潜め、今川勢が駿河方面に退却するのを待って、岡崎城に入ります。
こうして、12年に及ぶ人質生活に終止符を打つことができたのです。

再び、中西信男氏は【関ケ原合戦の人間関係学】の中で、

人質時代の思い出は・・・屈辱的なものであった。・・・このような境遇から彼自身の劣等感情は当然、コンプレックスにまで形成されたとみられる。この劣等感情というのは、アドラーによれば・・・ひどい環境、すなわち彼を人間として尊重せず、無視し続けることは、それを劣等コンプレックスにまで高めるというのである。そのような兆候の一つとして、・・・無口とか容貌の自信のなさなどをあげることができる。
しかし、この劣等感の過度の補償として、優越性を追求しようとする傾向がみられる。このような自らのおかれたみじめな状態はそのまま認めることが出来ないので、何とかその反対の優越性を誇示しようとするのである。
このように人質生活というものは家康に忍耐する性格を形成したが、他方で、その性格にある歪みを与えたことも認めざるを得ない。

と述べておられます。

信長は、田楽狭間で義元を討った後、その勢いをもって三河の諸城を陥れていました。
それに対して、岡崎城に戻った元康は、義元の跡を継いだ氏真に信長討伐を勧めます。しかし、どうしたことか、氏真は立つ気配がありません。
その一方で、元康は、信長が清洲城に戻るのを見計らって、織田方に陥れられていた三河の諸城の回復にかかります。
こうなると、元康が、義元の弔い合戦を勧めたのは、義理を果たすためというよりも、今川家の助勢を得て、旧領を回復したかったためではないか、という気がしてきます。


元康、信長と同盟を結ぶ

その後、元康は、三河の平定に専念するため、信長に講和を申し入れます。
それは、美濃や近江の攻略を目指していた信長にとって、願ってもない申し入れでした。
永禄5年、元康は、清洲城で信長と攻守同盟を結びます。
「清洲同盟」と呼ばれるこの同盟は、信長が倒れるまで、一度も破棄されなかった、当時としては希有の同盟とされています。しかし、この同盟が長く維持された理由は、信長と元康の利害が一致していたからであることはもちろんですが、一番には、二人の性格の差にあったと考えています。
つまり、繰り返し、【関ケ原合戦の人間関係学】からの引用ですが、人質時代から家康は、

鷹狩りを好み、蒲原(静岡県)に行って小鳥を捕らえたが、孕石主水の邸のうしろの林に鷹が入りこんで、家康たちがしばしば荒らしたので、主水は「三河の倅(せがれ)にはあきれはてた」としばし罵ったという。その後、三十数年後に、武田勝頼を攻めたとき、遠江の高天神城をこの主水が守備していたが、家康はこの城を降伏させ、主水に切腹を申しつけた

といいます。家康の非常に執念深い一面を示す逸話ですが、あくまでも天下を意識し、京を目指していた信長と、今川家に対する私怨から、終生東にしか目が向かなかった家康の、同盟であったからこそなのではないのでしょうか。


家康、誕生する

こうした性格は、家康の戦い方によく現れており、代表的な合戦を[家康の関ケ原までの主要な合戦歴]に挙げ、もう一度整理してみたいと思います。

翌永禄6年7月、元康は、今川義元の偏諱である「元」を「家」代え、家康と名乗り、今川家と決別することを明らかにし、三河の平定を成し遂げた後の、永禄9年12月には、松平姓を徳川姓に改めます。

こうして、徳川家康は誕生しました。


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