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[家康の関ケ原][第三章 家康の合戦]


家康が関与した合戦には、幾つかの特徴があります。
ここでは、第二章[家康の関ケ原までの主要な合戦歴]に挙げられた十一の戦いを分類しながら、家康の「戦い方」を考えてみたいと思います。


まず初めに、「1.助勢を依頼されて加わった戦い」として、

残った五つを、「2.自らが主体の一方となった戦い」として、

とに分類します。


「1.助勢を依頼されて加わった戦い」での家康の活躍は、それぞれ目覚しいものがあります。

こうして、家康は、次第に信長や秀吉をして一目置かせるほどの力を持つようになっていきます。

一方、「2.自らが主体の一方となった戦い」ではどうでしょうか。

こうしたことから、自らが主体ではなく、かつ、義元・信長・秀吉などの大きな力を背景にした戦いでは、目覚しい働きをするのに対し、自らが主体となると、驚くほど慎重(あるいは臆病)だといえるのではないでしょうか。
これはまた、大きな力を持った者に対しては、非常に従順・慇懃であるのに対し、明らかに力の劣った者に対しては、強圧的で狡猾、ということに繋がっていきます。

今川氏の配下にあった掛川城を攻略したのは、義元が田楽狭間で討たれた後のことであり、武田氏の高天神城を攻略したのは、信玄が病没し、勝頼が設楽原で完敗した後のことであることや(尤も、戦い方としては充分に合理的だということはできますが)、信長は甲斐・越前・中国へと、秀吉は四国・九州・関東へと、積極的に版図の拡大を意図し、行動したのにひきかえ、これまで、家康にはそうした戦いがないことからも、それが分かります。


つまり、家康は、「圧倒的に」優位であることを確認できなければ、自ら先んじて立つことはなく、その優位を得るために、同盟・婚姻・調略と、取り得る可能な限りの手段を駆使し、周到な準備をして、そして、慎重に気長に機が熟するのを待つ、という傾向があります。
これが家康の戦い方の特徴といえるのではないかと思いますが、もう一つの特徴は、「C.三河一向一揆制圧」に始まり、

秀吉の没後に、私婚や勝手な同盟を禁じた豊臣家の掟を平然と破ったことや、
関ケ原合戦の後に、毛利輝元(正確には吉川広家)や伊達政宗との戦前の約束を反故にしてしまったことや、
大阪冬の陣で、講和の条件であると、大阪城のすべての濠を埋めてしまったこと、

などなどの戦後の処理に表れます。
いずれも、まるで、以前の約束などなかったも同然という態度ですが、ここで注目したいのは、相手が異議を申し立てても、一蹴できるほどに、自分が相手よりも優位にあることを、充分に確信できる場合に限る、ということです。

近習の本多平八郎が、家康を「わがあるじは、ハキとしたることを申さざる人」と評したといわれ(【関ケ原合戦の人間関係学】)、決断の前には家臣の話を良く聞いたともいわれます。
見方によっては、人の意見を良く聞き、それを決断の糧にするということにもなるのでしょうが、どうもそうではなく、自ら進んで決断することができないため、人に意見を求めざるを得ないということだったのではないか、という気がしてなりません。
つまり、明らかに優勢であれば、家臣の意見は自ずから一つにまとまりますから、家康はそれを採用すれば良いのですが、情勢の判断が難しい場合には、さまざまな意見が出され、家康はその選択に悩んだでしょう。
「1.自らは決断する必要のなかった戦い」と、「2.自らが決断しなければならなかった戦い」での働き方の落差が、それをよく表わしているのではないかと考えています。

このページでは、こうした家康の性格や戦い方を基に、[関ケ原合戦]を捉えてみたいと思います。


関ケ原合戦の人間関係学



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