総合目次のページ 家康の性格を下敷きに[関ケ原合戦]を考えてみます 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です
[家康の関ケ原][第九章 大坂の陣]


家康、論功行賞を発表する

家康は、池田輝政・福島正則・黒田長政らを大坂城に派遣して、毛利輝元に大坂城を退去するよう勧告させます。
これに対し、毛利輝元は、所領安堵を条件に大坂城西の丸を退去することに同意します。
こうして大坂城に入った家康は、すぐさま戦後処理に着手し、西軍諸将に対する過酷な処罰と、東軍諸将に対する論功行賞を発表しました。
これによって、中央を徳川譜代で固める一方、東軍に加わった豊家家臣は、九州・四国・中国・奥羽といった中央から離れた地に転封し、初めて徳川家による中央支配の意図を明らかにしました。

次に進む前に、この論功行賞の中で起きた、家康の性格を良く表わす騒動の一つをご紹介します。

西軍総大将の毛利輝元に対する処罰に絡む騒動ですが、戦前に吉川広家が家康に宛てた書状にも、大坂城退去の際の誓紙にもあった所領安堵の約束が、全く無視されていたことです。
逆に、毛利の所領は没収、吉川広家に毛利の所領の一部である周防・長門を与える、というものでした。
驚いたのは吉川広家です。
毛利家のことを思えばこその内応でしたが、家康は全く考慮しなかったわけです。
これは吉川広家の懇願によって、広家に与えられた周防・長門を毛利輝元に与えるということで落着しましたが、伊達政宗にも有名な「幻の百万石のお墨付き」といわれる書き付けを与えており、これも一揆を扇動したという理由で反故にされます。

些細なことを理由に相手をやり込めるのは、以前からの家康の常套手段で、これ以降も、大坂冬の陣の原因となった方広寺の鐘銘事件や、冬の陣の和睦条件に対する違約問題などに見られます。

それまでも250余万石を領し、日本最大の大名であった家康は、毛利・上杉・宇喜多ら大名の領地を没収或いは減封して力を殺ぐと同時に、自らは400万石を領することとなり、圧倒的な力を得ることになります。
最早、家康に対抗できる大名はいなくなりましたが、それでも更に2年余の間、豊臣家臣の動静を窺い、ようやく[関ケ原合戦]から2年半がたった慶長8年2月12日己亥(1603年3月24日)、従一位右大臣、征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。


家康、天下を望む

しかし、それでもまだ家康には、豊臣秀頼の存在が気に掛かっていたでしょう。加えて、豊臣家臣のほとんどを遠隔地に転封したとはいえ、合わせればいまだ1,000万余石を領しており、家康と譜代を合わせた600万余石をも超えていました。
しかも、「御所(家康)柿はひとり熟して落ちにけり、木の下に居て拾う秀頼『古人物語』」という落書があったとされる通り、家康はすでに七十歳の高齢で、急がなければならない、という気が強くしていたのでしょう。
そのため、慶長8年7月28日壬午(1603年9月3日)、秀吉の遺言に従って家康は、7歳の孫娘千姫を11歳の秀頼に嫁がせ、慶長10年4月には征夷大将軍の位を秀忠に譲り、更に、徳川幕府存続の足場を固めるため、いよいよ豊臣家との関係に決着をつけるべく動き出します。

秀頼と家康の関係に関して、笠谷和比古氏は【関ケ原合戦】の中で、

関ケ原の戦いにおいて家康は勝利はおさめたものの、・・・豊臣五大老の一人としての地位から抜け出してはいなかった。・・・軍事指揮をなしうる権限論的根拠としては豊臣秀頼の後見者として政務代行者としての地位に求めるほかはないのである。
・・・(秀頼の)この幼年で急速な官位昇進の意味するところは、秀頼がやがて成人して関白職につくであろうことであり・・・家康およびその子秀忠は、関白秀頼の意命に服さなければならなくなるような事態の訪れる可能性があることである。

と述べておられます。

ここで「急速な官位昇進」というのは、合戦当時八歳で従二位であった秀頼が、慶長6年に大納言、慶長7年に正二位、慶長8年に内大臣、慶長10年には13歳で右大臣に叙せられたことを指します。
そこで家康は、秀頼が徳川家に臣従する意志があるかどうかを確かめるため、慶長10年4月、秀忠が征夷大将軍に任じられた期に、大坂にあった秀頼に対して上洛するよう求めます。
かつて秀吉が関白に就任した時に、家康に対して上洛を促したことを思い起こさせます。

この要請に淀殿は激怒し、「もし強いて秀頼上洛をすすめらるるに於ては、秀吉母子とも大坂にて自殺すべき」と拒否します。しかし、慶長16年3月、ようやく加藤清正らの奔走で二人の会見は実現します。
中西信男氏は【関ケ原合戦の人間関係学】の中で、この二条城での会見後の家康の心境を

ちょうど二十歳にならんとしている大男の秀頼に対し、七十歳をこえた小男の家康が、何か生理的な圧迫感を覚えたことは確実であろう。・・・秀頼はこれから伸びようとする若木である。家康がその若さに抑え難い嫉妬を感じたことは想像にかたくない。・・・豊臣をこのままにしておくことへの危惧が家康の心を占領しはじめたのである。

と述べておられます。

家康は焦っていました。しかし、それでもなお慎重です。


家康、豊臣家を挑発する

慶長19年8月、方広寺鐘銘事件が起きます。

それまで家康は、大阪城に貯えられていた膨大な量の財宝を減らすため、秀吉供養のためという理由で、寺社の再建を勧めていました。
その一環として、秀吉の代から建立、崩壊、再建、焼失という歴史を繰り返してきた方広寺大仏殿が三度(みたび)再建され、同年、新しい鐘が鋳上がりました。
その鐘に鋳込まれた銘に、家康は難癖をつけたのです。しかも、大仏殿供養の直前でした。

その3ヶ月前の同年5月には、供養の段取りについて家康の了解は得ていたのですが、2ヶ月もたった同年7月から、些細な問題を持ち出しては抗議を繰り返し、とうとう、鐘銘の「国家安康」は家康の名を故意に分かつものだと非難して、供養の延期を主張します。

それほどまでに問題にした鐘ですが、徳川時代を経て現在でも方広寺に残っているそうですから、最早、豊臣家を追い込むための言いがかりに過ぎなかったことは明らかでしょう。【関ケ原合戦の人間関係学

この家康の嫌がらせに、豊臣家の怒りは一通りではありませんでした。
それに追い撃ちをかけるように、同年9月、家康は、豊臣家の安泰のために、秀頼が江戸へ参勤するか、淀殿を人質として江戸へ差し出すか、大坂以外への移封に応じるか、いずれかを選択するよう求めます。
しかし、どれもたやすく受け入れられる条件ではないことは明らかです。

とうとう秀頼は衝突は不可避と判断して、大坂城の防備を固め、兵糧を城内に運び入れる一方、各地に檄を飛ばし加勢を求めます。
その求めに応じて長宗我部盛親・真田幸村・後藤基次らが相次いで入城しました。


大坂冬の陣

こうして家康は、慶長19年10月11日庚寅(1614年11月12日)に駿府を出、途中で鷹狩を楽しむなどしながら、同年10月23日に京に到着します。この時は軽装での発向であったといわれ、ここは一つ大坂方の狼狽振りを見物してみようか、といった感じです。
しかし、福島正則・黒田長政らは江戸に留め置かれました。
関ケ原合戦の時とは違い、相手は豊臣秀頼ですから、万が一のことを考えたからでしょう。
関ケ原での勝利はこれら諸将の活躍があったからこそである上に、すでに20年近くも経っているのですが、今もって、十分に信を置いていないということの証でもあります。

大坂城に籠った12-13万といわれる豊臣軍に対し、徳川軍は20万余の兵をもってこれを囲みますが、そこは天下の堅城ですから、圧倒的な徳川軍も攻めあぐみます。
そこで徳川軍は、大砲を打ち込む、城に向かって穴を掘る、など示威行動で豊臣方の動揺を誘う作戦に切り替えます。
思惑通り、本丸に詰めていた女性たちは、砲声や地響きに脅え、それを見計らって家康は和議を申し入れます。
渡りに舟の豊臣方はこの和議を受け入れますが、問題はその内容でした。

同年12月18日丙申(1615年1月17日)から始まった交渉でまとまった和議の条件は、

淀殿を人質として求めない
大坂城に集まった浪人衆の罪を問わない
二の丸・三の丸を大坂方で破却する
徳川方で惣構えを破却する

というものでしたが、構えの破却に関する項が誓紙には抜けていました。
大坂方に急ぐ理由はありませんから、少しずつ工事を進めるつもりでしたが、徳川方は誓紙が取り交わされて僅か3日後の、同年11月24日には工事に掛かり、早くもその年には工事を終え、更に引き続いて、大阪方の担当するはずの三の丸の破却工事に取り掛かります。
大阪方は違約だと慌てて抗議をしますが、徳川方はのらりくらりの対応で、その間にも、櫓は倒され堀は埋め立てられていきます。

まったく要領を得ないまま年が明けて、慶長20年正月15日壬戌(1615年2月12日)、大坂方は直接家康に詰問使を送って抗議します。
それに対し家康は、「奉行が勘違いをしているのだろう。早速元に戻すよう指示する」と答えまが、その答えを詰問使が大坂に持ち帰った頃には、堀は「三歳の子供でも容易に」行き来できるほど平らに埋められ、残っているのは本丸だけ、という状態になっていたのです。


大坂夏の陣

こうした度重なる挑発に、大阪方が矛を収められるはずはなく、再戦は不可避でした。
その上、大阪方の再戦の準備を咎めて、再び、大阪城に篭った浪人を追放するか、秀頼が大和か伊勢への国替えに応ずるか、いづれかを選択するように迫ります。
それまでの家康は、秀頼が恭順の意を示せば、豊臣家の存続も許容する、という考えだったように思われますが、この段階では最早その意志はまったくないように見えます。

受け入れられるばすもない要求を突きつけ、それが拒否されると、慶長20年5月7日癸丑(1615年6月3日)、家康は大阪城攻撃を開始します。
大阪方にとって、頼みの大阪城は裸同然ですから、冬の陣の時のように篭城戦を採ることはできず、かといって、城外に打って出れば圧倒的な徳川軍に対抗できるはずもなく、局所的には真田幸村・後藤基次隊らの奮戦があったものの、大局的には勝ち目はありませんでした。

その日の夕方、真田隊が壊滅したことから大阪方は総崩れとなり、徳川方の兵が大阪城に乱入します。
大阪方は秀頼の妻千姫(家康の孫娘)を家康の元に送り届け、同時に秀頼と淀殿の助命を嘆願しますが、もちろん家康にそのつもりはなく、翌5月8日甲寅(1615年6月4日)、秀頼・淀殿が避難していた大阪城山里曲輪の糒蔵に一斉射撃を加え、秀頼23歳・淀殿49歳は自刃します。

こうして豊臣家は滅び、名実ともに天下は家康のものとなったのです。


家康の関ケ原

[関ケ原合戦]は「天下分け目の戦」であったといわれます。
確かに、家康が豊臣家に代わって天下を仕置する契機となったことは事実ですから、「天下の分け目」ではありました。
しかし、これまでの家康の戦い方を見ると、「中央に覇を唱えてはならない」とした、毛利元就の教えの信奉者であったかのような感じが強くします。
中央は信長や秀吉に任せて、ひたすら自領の経営と、その周辺部への浸透に専念してきました。
「名」よりも「実」を極端に尊んできました。
そしてその結果、かつての三河の小領主は、関東一円に250余万石を領する大大名にまで出世しました。まさに、「鳴くまで」待ったのです。

そうした家康にとって、豊臣政権を担うべき立場に止まるか、政権そのものを掌中にするか、という選択がこの時期に必要であったとは思えません。
それまでの経験則に従うことこそが、家康にとっては最善の選択であったと考えるからです。
つまり、秀吉亡き後の日本を実質的に取り仕切っていたのは家康でした。
家康にはそれだけで十分であったはずです。
敢えて大きな危険を冒してまで、豊臣家を倒し、徳川政権を打ち立てる必要性があったでしょうか。
少なくとも[関ケ原合戦]までは。

しかし、戦後二条城で秀頼と会見した慶長16年3月以降の家康は、かなり変ったように見受けられます。
将軍位に就いたばかりの秀忠の手腕や、『豊臣をこのままにしておくことへの危惧』感などが重なり合って、70歳という高齢の家康は、徳川家の将来について考え始めなければならない、と感じたからなのでしょう。
それまでは、ひたすら反抗分子の排除を目指してきた家康でした。
[関ケ原合戦]も、家康にとって大きな障害であった三成を排することが、その目的でした。
しかし、この頃からは、豊臣家を倒すという意図をもって、常軌を逸した挑発を繰り返し始めます。


さいごに

この間、家康は、一貫して徳川政権樹立を目指して動いてきたという考えが、一方にはあります。
が、以前から、必ずしもそうではない、という観点から[関ケ原合戦]を捉え直すことはできないだろうか、と考えていました。

かなり乱暴な内容になってしまいましたが、どうにか最後の一文を書けるところまで辿り着きました。
今後も少しずつ見直しを続けていきたいと考えておりますので、お気づきの点がありましたら、是非ご指摘いただけますようお願い申し上げます。


関ケ原合戦-家康の戦略と幕藩体制】【関ケ原合戦の人間関係学



総合目次のページ 家康の性格を下敷きに[関ケ原合戦]を考えてみます 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です