[家康の関ケ原][関ケ原合戦関係略年譜][慶長4年] |
慶長4年 |
豊臣秀頼、諸将の参賀を伏見城に受ける。 | 1月1日 壬午 1599年 1月27日 |
島津義弘の兄義久、家康と往来したため、三成、これを詰問する。島津義久、三成の詰問に対し、義弘・忠恒父子に誓書を与え、異心なきことを誓う。 | 1月3日 甲申 1599年 1月29日 |
豊臣秀頼、秀吉の遺言に従い伏見城から大阪城に移る。 | 1月10日 辛卯 1599年 2月5日 |
前田利家ら大老・五奉行、家康が私的に縁組みを進めていることに対し詰問する。 | 1月19日 庚子 1599年 2月14日 |
これより先、家康、伊達政宗・福島正則・蜂須家家政らと私に縁組みを進める。藤堂高虎、三成の陰謀を家康に報告する。 |
2月2日 壬子 1599年 2月26日 |
家康、大老・五奉行の詰問に対し、誓書を交換し和解。 |
三成ら五奉行、家康排斥を図る。前田利家、細川忠興の仲介を得て、伏見に至り家康と和し、三成らによる家康襲撃の企みがあることから、向島に移ることを勧める。 | 2月29日 己卯 1599年 2月25日 |
三成・増田長盛・長束正家、大阪に至った家康を襲おうとしたが果たせず。 | 3月11日 辛卯 1599年 4月6日 |
家康、答礼を兼ねて大阪に前田利家の病気を見舞う。 |
3月26日 丙午 1599年 4月21日 |
家康、前田利家の勧めに従い向島に移る。 |
前田利家が大坂で逝去(62歳)。 | 閏3月3日 壬子 1599年 4月27日 |
加藤清正・黒田長政らの諸将、三成の襲撃を謀る。 |
三成、加藤清正・黒田長政らの諸将による襲撃を受け、大阪より伏見に逃れ、家康に頼る。(三成が入ったのは伏見城内の自邸だとするものもある【関ケ原合戦】) | 閏3月4日 癸丑 1599年 4月28日 |
家康、襲撃から逃れ頼って来た三成を、佐和山城に蟄居させる。 |
閏3月13日 壬戌 1599年 5月7日 |
家康、伏見城西の丸に移る。 |
閏3月21日 庚午 1599年 5月15日 |
家康、毛利輝元に異心なきことを誓う。 |
4月2日 庚辰 1599年 5月25日 |
家康、島津義弘・忠恒父子に異心なきことを誓う。 |
毛利輝元の養子秀元、家康に通ずることなきを安国寺恵瓊に誓う。 | 6月4日 辛巳 1599年 7月25日 |
6月 | 家康、山城伏見にあった諸将に対し、帰国して休養を勧める。家康の勧めで、諸将は帰国する。 |
7月29日 丙子 1599年 9月18日 |
家康、黒田長政に五奉行との和解が成ったことを知らせる。 |
増田長盛、前田利長に謀叛の兆しがあり、浅野長政・大野治長・土方雄久に家康暗殺を指示している、と密告する。 | 9月7日 癸丑 1599年 10月25日 |
家康、大阪に下り三成邸に投宿する。 |
9月9日 乙卯 1599年 10月27日 |
家康、秀頼と会見。大阪で執政することを定める。 |
9月28日 甲戌 1599年 11月15日 |
北政所、大阪城西の丸を去り、家康を同所に譲る。 |
10月2日 戊寅 1599年 11月19日 |
家康、家康暗殺を企てたとして、大野治長を下野、土方雄久を常陸に流し、浅野長政を甲斐に蟄居させる。 |
10月3日 己卯 1599年 11月20日 |
家康、首謀して家康暗殺を企てたとして、前田利長討伐のため軍を催すことを決め、諸将にその旨を述べる。 |
細川幽斎、嫡男忠興に対する家康の疑いに対し、異心なきことを誓う。 | 10月24日 庚子 1599年 12月11日 |
家康、細川忠興が前田利長と通じて謀叛の兆しありとして、討伐軍を催そうとする。 |
11月20日 丙寅 1600年 1月6日 |
これより先、戸沢政盛、密かに上杉景勝の動静を家康に報告。 |
11月 | 細川忠興、家康に誓書を進める。 |
前田利長、謀叛の疑いに対し、家康に老臣横山長知を派遣し、他意なきを陳述させる。 | 12月 |