総合目次のページ 家康の性格を下敷きに[関ケ原合戦]を考えてみます 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です
[家康の関ケ原][関ケ原合戦関係略年譜][慶長5年]


西軍
慶長5年
東軍

豊臣秀頼、諸将の参賀を大阪城に受ける。

1月1日
丙午
1600年
2月15日
次いで諸将、大阪城西の丸の家康に歳首を賀す。


細川忠興、謀叛の嫌疑を受けたため、三男光千代を人質として江戸に送る。

1月25日
庚午
1600年
3月10日
 


  1月 この月、家康、小笠原秀政の娘を養女とし、これを蜂須賀家政の長子至鎮に嫁がせる。


  2月1日
乙亥
1600年
3月15日
家康、信濃川中島の田丸忠昌を美濃兼山に移し、同国恵那・土岐・可児の三郡を与え、また、同国兼山の森忠政を信濃川中島に移し、更級・水内等四郡を与える。


上杉景勝、出羽の諸城の修築に取りかかる。

2月2日
丙子
1600年
3月16日


細川忠興、新領地豊後杵築に老臣松井康之を入れる。

2月7日
辛巳
1600年
3月21日
家康、細川忠興に豊後杵築六万石を加増する。


この月、上杉景勝の老臣藤田信吉、景勝の三成に応じることの非を説いて、老臣直江兼続と対立。

直江兼続、上杉景勝をして藤田信吉を誅せんとするが、信吉、会津を去り江戸を経て入京。

3月 この月、堀秀治の老臣堀直政、上杉景勝の動静を家康に報告。


  4月1日
甲戌
1600年
5月13日
家康、上杉景勝への詰問状を直江兼続に送り、逆心をもって城砦の改修などを行っているという風聞について、弁明を要求する。


  4月27日
庚子
1600年
6月8日
家康、会津出征にあたり、島津義弘に伏見城留守番を託す。


  5月3日
乙巳
1600年
6月13日
家康、上杉景勝の老臣直江兼続からの返書を見て上杉討伐を決意、諸大名に会津出征を命ずる。


前田玄以・増田長盛・長束正家ら、家康に会津出征の中止を請う。

5月7日
己酉
1600年
6月17日
堀尾吉晴・生駒親正・中村一氏、家康に会津出征の中止を請う。


  5月17日
己未
1600年
6月27日
これより先、前田利長、家康と和し生母芳春院を人質として差し出す。

家康、前田利長の質を江戸に送る。


  6月2日
甲戌
1600年
7月12日
家康、関東の諸将に会津出征の期日を告げ、軍備を命ずる。


  6月6日
戊寅
1600年
7月16日
家康、諸将を大阪城に集め、会津出征の軍議を開き部署を定める。

家康、保科正直の娘を養女とし、黒田長政に嫁がせる。


上杉景勝、家康の会津出征を知り、諸将に訓示し奮起を促す。

6月10日
壬午
1600年
7月20日


  6月15日
丁亥
1600年
7月25日
豊臣秀頼、大阪城西の丸に赴いて家康と会し、黄金・米などを贈る。


  6月16日
戊子
1600年
7月26日
家康、諸大名を引き連れ大阪を出発、伏見城に入る。

伊達政宗・最上義光・佐竹義宣・南部利直らも帰国。


  6月18日
庚寅
1600年
7月28日
家康、伏見城守備に鳥居元忠を置き、伏見を発つ。

同夜、水口城主長束正家らによる夜襲計画を察知し、近江石部を夜半に出発する。


三成、直江兼続に家康が伏見を発ったことを告げ、上杉氏の軍略を問う。

6月20日
壬辰
1600年
7月30日


  6月22日
甲午
1600年
8月1日
家康、三河吉田に到着、池田輝政の饗応を受ける。


  6月23日
乙未
1600年
8月2日
家康、遠江浜松城に到着、堀尾忠氏の饗応を受ける。


  6月29日
辛丑
1600年
8月8日
家康、鎌倉鶴岡八幡宮に詣で戦勝を祈願する。


  6月 この月、家康、松平康直の娘を養女とし、有馬豊氏に嫁がせる。


三成、会津出征の途にあった大谷吉継を垂井で迎え、家康誅伐の意志を告げる。
大谷吉継、三成の挙兵の企画に異を唱えるが、三成との友誼と豊臣家への忠義のため、説得を受け入れる。

7月2日
癸卯
1600年
8月10日
家康、江戸城に入る。


  7月7日
戊申
1600年
8月15日
家康、会津出征の期日を定め、軍令を下す。


大谷吉継、三成の佐和山城に入り、家康討伐の論議をする。

7月11日
壬子
1600年
8月19日


大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊ら佐和山城に会し、毛利輝元を西軍の総大将に迎えることに決す。

増田長盛、これを家康に密告する。

7月12日
癸丑
1600年
8月20日


  7月13日
甲寅
1600年
8月21日
榊原康政、会津に向けて江戸を出立する。


毛利輝元、広島から海路大坂に向かう。

7月15日
丙辰
1600年
8月23日


毛利輝元、大坂に到着。

7月16日
丁巳
1600年
8月24日


毛利輝元、大阪城西の丸に入り、豊臣秀頼を擁立して西軍の総大将になる。

長束正家・増田長盛・前田玄以、家康の罪条十三カ条(内府ちかひの条々)を挙げ、諸大名に家康討伐の檄文を送る。

これより先、三成、会津出征に従軍した諸将の妻子を人質にしようとするが、細川忠興の妻ガラシャはこれを拒み自害する。

7月17日
戊午
1600年
8月25日


宇喜多秀家・島津義弘・小早川秀秋、鳥居元忠が守備する伏見城を囲む。

7月19日
庚申
1600年
8月27日
徳川秀忠、会津に向けて江戸を出立する。


大谷吉継、真田昌幸・幸村親子に西軍への助力を求める。また、細川忠興の老臣松井康之に西軍への助力を求めるが、康之、応えず。
そのため、細川幽斎(藤孝)の丹後田辺城を攻める。

7月20日
辛酉
1600年
8月28日


  7月21日
壬戌
1600年
8月29日
家康、江戸城を発する。


  7月24日
乙丑
1600年
9月1日
家康、下野国小山に着陣。


  7月25日
丙寅
1600年
9月2日
家康、下野国小山で諸将を招集して軍議を開き、西軍の動きを告げ去就を問う(小山評定)。

黒田長政・福島正則ら、誓書を差し出して西上する。


三成、佐和山城を出て、伏見から大坂城に入る。

7月29日
庚午
1600年
9月6日


大谷吉継、脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・平塚為広・戸田重政らを率いて、北陸方面の平定を進め、加賀の前田利長と対峙する。

8月


西軍、伏見城を攻落。城将鳥居元忠・松平家忠、討死。

8月1日
壬申
1600年
9月8日


前田利長・利政、加賀大聖寺城を攻落。城将山口宗永、自刃。

8月2日
癸酉
1600年
9月9日


  8月4日
乙亥
1600年
9月11日
家康、小山より江戸城に入る。


毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊ら、伊勢の平定に向かう。

8月5日
丙子
1600年
9月12日


三成、美濃に出陣。

8月9日
庚辰
1600年
9月16日


三成、大垣城に入る。

小西行長・高橋長行・川尻秀長・福原長尭ら、大垣城付近に布陣。

島津義弘・豊久父子、美濃に向かう。
8月11日
壬午
1600年
9月18日


  8月12日
癸未
1600年
9月19日
家康、細川忠興に但馬一国加増、加藤清正に肥後・筑後を与えることを約す。


  8月14日
乙酉
1600年
9月21日
福島正則・池田輝政ら東軍先鋒隊、福島正則の居城清洲城に到着。

家康、九鬼嘉隆の子守隆に南伊勢五郡を与えることを約し、忠節を促す。


三成、島津義弘をして美濃墨俣城を守らせる。

8月20日
辛卯
1600年
9月27日


  8月21日
壬辰
1600年
9月28日
家康、伊達政宗に刈田・伊達など七カ国を与えることを約す。


島津義弘・豊久父子、墨俣に陣する。

8月22日
癸巳
1600年
9月29日
福島正則・池田輝政ら東軍先鋒隊、竹ヶ鼻城を落し岐阜城攻撃に向かう。


岐阜城の織田秀信、東軍先鋒隊の攻撃を受け、降伏して紀伊高野山に入る。

宇喜多秀家、大垣に到着。
8月23日
甲午
1600年
9月30日
福島正則・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長・一柳直盛・井伊直政・本多忠勝ら東軍先鋒隊、織田秀信の岐阜城を攻落。秀信、降伏して紀伊高野山に入る。


鍋島勝茂ら、伊勢松坂城の古田重勝を降す。

8月24日
乙未
1600年
10月1日
東軍先鋒隊、美濃赤坂の高台を占拠、大垣城の西軍と対峙。

徳川秀忠西上軍、宇都宮から中山道を信濃に向かう。


毛利秀元、伊勢安濃津城を攻落。

8月25日
丙申
1600年
10月2日


三成、大垣より佐和山城に戻る。毛利輝元に出陣を要請の使者を出すが、東軍に捕らえられる。

8月26日
丁酉
1600年
10月3日


  9月1日
辛丑
1600年
10月7日
家康、三万の軍勢を率い江戸を出発。

徳川秀忠、信濃軽井沢着。


大谷吉継、越前敦賀より美濃に入り山中村に布陣。

9月2日
壬寅
1600年
10月8日
家康、藤沢着。


  9月3日
癸卯
1600年
10月9日
家康、小田原着。
徳川秀忠、小諸着。


  9月4日
甲辰
1600年
10月10日
家康、伊豆三島着。


  9月5日
乙巳
1600年
10月11日
家康、駿河清見関着。

徳川秀忠、真田昌幸・幸村父子の上田城を攻め始める。


  9月6日
丙午
1600年
10月12日
家康、駿河島田着。
徳川秀忠、上田城攻撃のため染谷村に布陣。


毛利秀元・吉川広家、伊勢より美濃に入り南宮山に陣す。

9月7日
丁未
1600年
10月13日
家康、遠江中泉に到着。


  9月8日
戊申
1600年
10月14日
家康、遠江白須加賀に到着。小早川秀秋の使者が来訪。


  9月9日
己酉
1600年
10月15日
家康、三河岡崎着。


  9月10日
庚戌
1600年
10月16日
家康、尾張熱田着。

徳川秀忠、上田城攻めを断念。


  9月11日
辛亥
1600年
10月17日
家康、尾張一宮に藤堂高虎と会し、ついで尾張清洲城に入る。

徳川秀忠、上田城攻めを断念し西上を開始。


  9月13日
癸丑
1600年
10月19日
家康、岐阜着。
細川幽斉、勅命を受けて丹後田辺城を開城。


小早川秀秋が松尾山に布陣。

島勝猛・蒲生郷舎、家康の赤坂到着を知り、牽制のため大垣西方の杭瀬川で東軍を挑発。

毛利元康・立花宗茂、東軍に寝返った京極高次の大津城を攻落。

夜、東軍が西進を開始したとの情報を得、急遽、大垣城を出て、関ケ原に移動を開始。

9月14日
甲寅
1600年
10月20日
家康、正午頃赤坂に到着、岡山に布陣。

中村一栄・有馬豊氏、杭瀬川付近で島勝猛・蒲生郷舎と交戦、形勢不利となり撤退。

夜、中山道を西進。


9月15日
乙卯
1600年
10月21日

慶長5年9月15日、関ケ原]を参照。


以降は

大坂の陣]を参照。



総合目次のページ 家康の性格を下敷きに[関ケ原合戦]を考えてみます 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です